多喜浜のお山
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小久貢~大久貢
国道・県道
一般道
下記写真の場所
  

信号機だらけの江ノ口交差点から再開。
目指す久貢山は左折、東港・黒島埠頭方面へ。

県道336号新居浜東港線を東へ。
右の堤防の向こうを流れているのは落神川。



落神橋の交差点を通過…。

今度は五差路。
変わった形の交差点が多いなぁ。

…と思ったら、今度はパゴダ(ミャンマー式の仏塔)がある幼稚園。
お釈迦さまの住む家がある不思議な風景。



江ノ口交差点から1.5kmのまた変形交差点。
大通りが二股に分かれますが、
その中州のような空間に久貢山(小久貢・大久貢)が並んでいます。
まず、正面の森が小久貢です。
小久貢には信号を直進し、右にカーブするところに-



  

小久貢の麓まで入ることができる階段があります。
また、東側にも入口がありますので、
クルマの方は東隣の久貢山公園駐車場が便利です。

十数段、ぴょこぴょこっと登れば- 

可愛らしい小久貢の目の前です。
登ってみたかったんですが-

周囲をフェンスで囲まれていました。
1分とかからず、登り切れそうな高さですが、残念。



次は大久貢、小久貢の南側の道を東へ。
写真左のフェンスの向こうは久貢山公園。
秋の新居浜太鼓祭りには、
川東地区の太鼓台が集まって勇壮なかきくらべが行われたりします。



柳川の河口近くに架かる柳川橋を渡ります。
橋の上から見えるのが大久貢です。

柳川の上流方向の景色。
柳川はすぐそこの山並みから発する短い川だから、
この川幅を満たしているのは海水多めの汽水。
その証拠に-

刺されたらヒドいことになりそうな、
クラゲがプカプカ、漂ってました。



橋を渡り終えると山裾にある史跡「久貢屋敷」の生け垣があります。
クルマは先のふれあい公園の駐車場へ。
生け垣の切れ間が-

入口です。

入ってすぐ裏に「市指定史跡 久貢屋敷」

多喜浜塩田の開発に生涯を捧げた天野喜四郎元明が、
屋敷を構えたのがここ、久貢屋敷跡。
現在はとても手入れされた庭園が開放されています。

左に酒井黙禅の句碑。
「濱屋しき 西日に映ゆる 大蘇鉄」

庭園中央には県の天然記念物に指定されている巨大なソテツ。
享保年間(1730年頃)に、湊神社、岡本家(白浜)、
そしてここに一株ずつ植えられたものの1本です。
樹齢280年の大ソテツです。
埋め立ての影響で根を傷めたり、化学工場の影響など、
一時、樹勢が衰えた時期もあったそうです。
移設して土盛りなど保護に努めたおかげで、
いまでもますます成長しているそうです。

県指定 天然記念物

ソテツ(蘇鉄)

昭和32(1957)年12月14日指定

根回り…7m・高さ…5m
地上での広がり…約65㎡

享保年間(1730年ころ)多喜浜塩田の開祖天野喜四郎元明氏が、ここを本拠にして塩田の開発を進めました。
そのときの記念にここに植えた雌株のソテツが成長し、このように大きくなりました。
このようなことから、このソテツは、多喜浜塩田発祥の地を後世に伝える生きた記念物としてとても貴重な存在です。
みんなで大切に守り育てることに努めましょう。
ソテツは、九州の南の亜熱帯の海岸の断崖やその、近辺に生える常緑の低木、他の樹木のように年輪がありません。

新居浜市教育委員会

ソテツの奥、山裾に一段と大きな顕彰碑があります。

「多喜浜塩田開基
 天野喜四郎翁顕彰碑
 鷲尾勘解治題」

天野喜四郎翁事績

抑々
多喜浜塩田は江戸時代西条藩領内に於ける三大事業の一つとして世に知られ、宝永元年長野県の人深尾権太夫翁が起工、久貢山沿い十三間浜堤を完成したが、享保5年深尾氏の逝去に依り、広島県御調郡吉和浜の塩業家天野喜四郎翁が此の地の人々の懇請をうけ、来りて久貢山の地に居を定め、塩田の築造に着手したが、享保8年の一大飢饉に遭遇せしため、紀州藩を通し幕府に糧米貸丁万を出願して容れられ、糧米を確保したことにより近郷近在の人々喜んで工事に集まり、地方民の飢を救い一方工事は順調に進捗した。
その故をもって11年17日、喜四郎は紀州藩に召され、藩候に嘉賞され、酒食並に御盃を賜る光栄に浴し、享保9年、塩田16町6反を完成。
続いて享保18年、塩田、宅地、田畑併せて36町1反の築造に成功し、多喜浜塩田の基礎を確立。
更に次期工事を計画中、宝暦6年、初代喜四郎翁は惜しくも世を去ったが、喜四郎翁の夢は歴代の天野氏の手に依り二百余年の継続事業として続行され、古浜、東分、西分、北浜、沖浜、三喜浜併せて240町歩に及ぶ日本屈指の大塩田となったもので、初代喜四郎翁の功績は明治30年、第2回水産博覧会に際し、総裁大勲位彰仁親王より賞状を追贈される光栄に浴した。
時移り世変わりて昭和34年、多喜浜塩田は廃田となったが、時代の脚光を浴び、工業団地として新しく飛躍発展を見んとする時、初代喜四郎翁の旧邸遺跡の地に碑を営み、その功績の一端を誌して永く後人に伝えんとするものである。

昭和45年弥生

新居浜市文化財保存委員会
委員長 合田正良 謹誌
池田窓雪 謹書

では、山頂へ…と庭園の周りを歩いてみたのですが、
道がまるっきり見当たりせんでした。
おまけに、山の上からは海鳥がゲーゲーギャーギャー啼き声がすごくて、
辺りの草はフンで真っ白。
柳川寄りの方にあったのかも知れませんが、
民家の私有地って感じだったので引き返しました。
山頂には天野喜四郎翁らのお墓があるそうで、
行ってみたかったのですが、残念。

ひとりごと

小久貢も大久貢も登れなかったのが残念でした。
小久貢はフェンスでガードされてたから仕方ないけど、大久貢はきっとどこかに登り口があったんでしょうね。
いくつかの資料に、3分ほどで山頂に立てるってあるし、中腹には多喜浜塩田の開祖・天野喜四郎のお墓がある、とも。
多喜浜から帰ってきてから知ったことなので、行く前に読んでたら、探して登ったんだけどなぁ、残念。
でも、顕彰碑の裏の方とか歩いてたとき、山の上から、ゲーゲーギャーギャー、ウミウみたいな声が散々してました。
怖いくらい騒いでて、山頂なんか行ったらくちばしで頭をつつき回されそうな勢いで啼いてました。
だから、ちょっと怖くなって行く気がなくなっちゃったのもあるんですけどね。

さて、久貢山も垣生山と同じ陸繋島です。

久貢山の古地図も載せておきます。

明治の頃はまだ海に面した部分があったようですね。
けれど、やがて多喜浜塩田の開拓などで海から切り離されます。
その塩田のことですが、松山人な僕は正直、知りませんでした (^^;)
久貢山について調べてみて初めて知ったぐらい。
別子銅山もすごいけど、多喜浜塩田はもっと見直されていいんじゃないかと思いました。
『新居浜市史』によると

 多喜浜塩田開発根拠の地久貢屋敷

 多喜浜塩田は江戸時代西条藩領内における三大事業の一つとして世に知られ、宝永元年(1704年)長野県の人深尾権太夫翁が起工し、久貢山沿いに二二間浜を完成したが、享保5年(1720年)深尾氏の逝去により、広島県御調郡吉和浜の塩業家天野喜四郎がこの地の人々の懇請をうけ、来りて久貢山の地に居を定め塩田の築造に着手したが、享保8年(1723年)大飢謹に遭遇せしため紀州藩を通じて幕府に糧米の貸下方を請願していれられ、糧米を確保したことにより近郷近在の人々喜んで工事に集まり、地方民の飢を救い一方工事は順調に進み、享保9年(1724年)塩田16町6反を完成、続いて享保18年(1733年)塩田、宅地、田畑併せて26町1反の築造に成功し多喜浜塩田の基礎を確立し更に次期工事を計画中、宝暦6年(1756年)初代喜四郎翁は世を去った。

 翁の素志は歴代の天野氏に受け継がれて、200余年に亙る継続事業として続行され、古浜、東分、西分・北浜、沖浜、三喜浜併せて240町歩に及ぶ日本屈指の大塩田となったが、昭和34年(1959年)国策により多喜浜塩田は廃田となった。

この広大な大塩田跡は、工業都市新居浜の工業団地として再生し、新しい新居浜の発展の源泉になろうとしている。

 しかし塩田開発の根拠地としての久貢屋敷を史跡として指定し訪れる人に先人の偉業をしのばせるものとしている。

始まりは、別子銅山が開坑したのと同じ時代、元禄13年(1700)。
阿波の漁師六左衛門が黒島に立ち寄り、
「わしは、この海戸内界わいを船で旅するが、この遠浅になって続くこの入り江は塩をつくるには最高じゃと思う」
と、地元の人に告げた話が藩まで届き、宝永元年(1704)、信濃の深尾権太夫を迎え、工事に着手しました。
享保4年(1719)には久貢山は陸続きとなります。
久貢山に沿って十三間浜の新開堤が完成し、塩かま屋一軒を作られました。
しかし、享保5年(1720年)に権太夫が急死し、一時中断。
そこで藩が広島に人を送ってヘッドハンティングしてきたのが、尾道の浜師・天野喜四郎ら6人でした。
天野喜四郎らは私財まで投じて(銀117貫余)築造、16町6反(16.6㌶)の塩田が完成しました。

戦後、廃田になった大きな理由は生産過剰だったようですが、六左衛門の訪来から260年、喜四郎の登場からは236年後のことでした。

江戸時代の西条藩は塩田のおかげで藩政も潤い、多喜浜界隈では大飢饉でもひとりの餓死者も出すことがなかったと云います。
さらに天野喜四郎は塩田開発にあたり、飢饉救済事業として作業に従事した者に“お救い米”を配布することもあったそうです。
藩の事業と云えば、領民が苦役に耐え忍んだって話が多いです。
多喜浜の塩田開発に関しては、飢饉で路頭に迷った者の受け皿にもなっていたようです。

たった50年前に廃田になったばかりですが、塩田が拡がっていた面影はほとんど無く、工場や畑が拡がるばかり。
“塩”で思い出すのは「伯方の塩」ぐらいだし、別子銅山みたいに、往事を再現した製塩施設があればいいなぁ。

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