垣生山、久貢山、黒島山、は新居浜市多喜浜地区の海岸沿いに点在する、元は島だった山山です。
多喜浜地区はその昔、多喜浜塩田の名で知られた地でした。
江戸時代、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗や享保の改革で知られる享保年間。
、備後国から招かれた塩業家・天野喜四郎が塩田開拓を行って築造に成功、多喜浜塩田の基礎を確立しました。
喜四郎が逝去後も子孫が事業を受け継ぎました。
塩田は6代2世紀の間に240町歩(約238ha)もの日本有数の大塩田に発展しました。
昭和34年(1959)、残念ながら塩田は国策により、廃田され、跡地は工業用地や緑地、道路など生まれ変わりました。
工業団地やフェリーが発着する港湾は現代でも新居浜にとって重要な地域となっています。
垣生山、久貢山、黒島山は、そんな塩田開拓や干拓事業、河川からの土砂の堆積などで遠浅だった海岸が埋まりました。
往事は島だったものが陸続きとなった地形は、陸繋島と呼ばれます。
久貢山は大久貢山、小久貢山の二つからなっていますが、塩田発祥の地とも云える場所に位置しています。
信濃の深尾権太夫が宝永元年(1704)に塩田開拓に着手し、享保4年(1719)に久貢山は陸続きとなりました。
権太夫が死去し、塩業は一時中断しますが、その後を受けた天野喜四郎は事業を成功させ、久貢山の麓に居を構えました。
多喜浜の地名の由来も天野喜四郎に由来します。
享保の大飢饉の際、西条藩は難民を塩田築造に向かわせます。
普請奉行の多良尾介之進と、天野喜四郎は彼らを受け入れ、領内から一人の餓死者も出しませんでした。
二人の名から“多”と“喜”を取って多喜浜を名付けられたそうです。
久貢山麓の天野邸は「久貢屋敷」と呼ばれ、庭園には県指定天然記念物のソテツが大きく育っています。
新居浜東港の西側、垣生地区にそびえる垣生山も元は島の陸繋島です。
長年にわたる干拓事業や河川による土砂の堆積で遠浅の海が埋まり、少しずつ陸続きになって行きました。
垣生山はとても字名・地名が多いお山です。
小ピークにもそれぞれ、坊主山や舟蔵山、城ヶ峯、丸守山、女乙山などの山名が冠されています。
垣生山にまつわる最も古いお話は、古事記や日本書紀に登場する神功皇后の三韓征伐にまつわる伝説です。
三韓征伐は、朝鮮の新羅に出兵し、百済、高句麗をも服属させた出兵です。
女帝・神功皇后率いる一団が瀬戸内海を移動した際、北条の鹿島を始め、各地に伝説を残しました。
神功皇后は垣生にも立ち寄りました。
軍船を繋いだのが、南麓の女乙山にある法泉寺・女乙神社(乙女宮)にあるムクノキと云われています。
けれど、樹齢は500年ほどで伝説よりも新しいですが、新居浜市の天然記念物に指定されています。
船を繋いだ伝説から、昔は海に囲まれていたことが分かります。
また、そのほか、北部の方には姥捨の哀しい伝説も残っています。
現在、垣生山の登山道は地元ボランティア団体「垣生山よもだ会」により、20年以上、整備・保護されています。
筆頭は、4キロ以上に及ぶ登山道の建設です。
日々の草刈りから道しるべ、ベンチ、展望台、トイレの設置、桜の植樹、山小屋の建設まで多岐にわたっています。
おかげで、地域住民に愛されるお山となりました。
久貢山に咲き誇っていた厚岸草はいま、垣生山で大事に育てられています。
垣生山と同じ領家帯の花崗岩からなる黒島も塩田開拓で陸続きとなり、地名の“島”の字はその名残りとも云えます。
周辺ではこの花崗岩が風化した砂(真砂土)を入り浜式塩田で活用していました。
黒島山の麓にある黒島神社は、伊予の国内における国幣小社一七社の一つです。
その歴史は古く、斉明天皇が筑紫に行幸した際(660年頃)、同行していた大田皇女の安産を祈願されました。
南北朝時代には南朝の忠臣村上義弘が征西将軍懐良親王とともに武運長久を祈願しました。
皇室、公家、西条藩の崇敬を受けた由緒あるお社です。
西側の埋め立て地は工業団地として工場が建ち並んでいます。
南側には対岸にある、伊予水軍発祥の地と云われる大島を結ぶ渡船の港があります。
北部は、遊具広場、グラウンド、キャンプ場、音楽堂などのレクリエーション施設を備えた黒島海浜運動公園があります。
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