旧別子銅山へ行こう!
東平と一の森
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下記写真の場所
  

河又(こうまた)にある、県道47号新居浜別子山線に架かる時雨橋のたもと。
左斜めに入る道が東平の入口です。

看板がいろいろあるので、目に付くと思います。

路面が凍結する冬期(12~2月)は閉鎖されます。

この道路は道幅が2.5mしかない狭い道です。
車高2.8m、車幅2.1m、車長7.1mを越える車は、
通行困難なため、大型バスは無理です。
大型バスで来た観光客はマイントピア別子で、
マイクロバスに乗り換えてピストン輸送されてます。

東平の駐車場までは5.5km。

看板の通り、別子山へは抜けられません。



舗装が一瞬、簡易舗装に変わるところに案内看板。

  

「新居浜市東平記念館のご案内」
午前10時~夕方5時までの開館時間と、
毎週月曜日の休館日に注意です。
その他の銅山施設はいつでも見学可能です。

12月から2月末まで冬季閉鎖されるほか、
大雨警報発令下も通行止めになります。

狭い道です、クルマの方は慎重に。
バイクもゆっくりね。



ヘアピンカーブを重ねて高度を稼ぐポイント。
対向車に要注意です。

ひとつめのカーブを曲がったところに、
山の神が祀ってある祠があります。

石垣の先にある「山の神」とは-

大山積神社です。



崖っぽいところも多く、落石注意です。
落ちてくる石、落ちている石、ともに注意です。

路肩や法面が崩落、通行止めになることもある道。
工事は長引くこともあるので、
東平は行けるときに行っときましょう。



ヘアピンカーブ・ゾーンにあった、
監視者のような太い幹の大木。



「東平まで あと2KM」



この辺りは東西に道が走っていて、
北に抜ける足谷川の谷の先に海が見えました。

  

谷の先に見える麓の町は新居浜インター付近、
海沿いは多喜浜界隈、
海岸部の丘陵地は新居浜東港に接した垣生山です。



この辺りは路面がしっとりゾーン。

それとは別に、道沿いにこんな滝も。



「東平まで あと1KM」



山側に巨大なパイプ!
道路の下を抜けて下へ下へ。
地図にも載っている別子ダムからの送水管です。



5キロの道のりは遠いなぁと思っていた矢先、
不意に建物が出現。

東平の入口、「銅山の里自然の家」に到着しました。
道を挟む形で右が研修棟、左が集会所棟、
宿泊棟や炊飯棟は研修棟の向こう側にあります。
ここはかつて、東平小・中学校があった場所で、
昔、グラウンドがあった場所を突っ切る形で道路が通っています。

受付。

「東洋のマチュピチュ」はもちっと先。

左の集会所棟の階段は一の森の登山口も兼ねています。

一の森へはのちほど。

ちなみに、往時の東平小学校(奥)と中学校(左)です。
自然の家が道路より1段高いところにあるのは当時の名残で、
現道路はグラウンドを縦断する形で通っているようです 

ふたつの棟に挟まれた道を抜けると-



下り坂。

道路脇になにげに煉瓦造りの遺構が…。



左に急に曲がるカーブの外に立つ看板が目に入り-

  

続いて、銅山の峰峰がぐわっと視界に拡がりました。

カーブの外側は接待館があったところらしいです。

  

東平接待館跡

 採鉱拠点が徐々に嶺南の旧別子から嶺北の東平に移行していくのに伴い、住友関係の要人や著名人が訪れ、会食をしたり、宿泊する場所として、明治42年(1909)に、東平接待館が建設された。 東平の地名にちなんで「東平荘」と命名された。 東平荘は立派な門構えの施設で、建築材には檜、桜、栂、欅などが使われていた。
屋根は雪がすべり落ちやすいようトタン葺きであった。
部屋数は10畳ほどの広い部屋が4室、6畳の日本間が6室、会食をする20畳の大広間が1室あった。
昭和15年(1940)頃には、暖房設備が完備した20畳ほどの洋間が増設された。
 東平荘へは、土井晩翠、川田順、山口誓子などの歌人も宿泊している。
「荒城の月」の作詞者の土井晩翠が、昭和11年に東平接待館で詠んだ歌。

東平の山ふところに石楠の 花ながめつつ鶯を聞く

とうなるせったいかんあと 小学生用解説

 1909年に、住友の重要な人物や有名人を迎える施設として建てられた。
東平の地名にちなんで「東平荘」と名付けられた。
「荒城の月」の作詞者の土井晩翠も訪れ、歌をよんだ。

路肩の柵がガードレールから擬木に変わり、
公園の中にいることを実感。
撮影後、なにげに見下ろすと木陰に-

遺構が目に入りました。
水のタンクだったらしいです。

まだまだ下りますが、道の脇には、
探検心をくすぐられる脇道、小径があったり。



  

真っ青な空の下、
西赤石山を真っ正面に見る広場に着きました。
ひとまず目立つ看板は-

マチュピチュと呼ばれるきっかけになった巨大遺構、
貯蔵庫と索道基地跡への案内で-

インクラインと呼ばれる傾斜軌道跡の階段に下にあります。
のちほど、訪ねます。

  

広々とした空間の子供広場と駐車場に到着。
駐車場奥の東屋の前に駐めて昼食しました。
連休明けの平日だったので、車はぱらぱら。
このサイズなら山道も大丈夫だろうな中型バスが1台駐まっているくらい。
とってもとっても静かで、穏やかな東平でした。
ちなみに、赤石山系へ登山される方は、
もちっと奥にある臨時駐車場が駐車場所に指定されています。

ひとりごと

河又から東平への道は林道です。
くねくねです。
でも、お山歩好きな人には、馴染みのある山道です。

河又の入口の標高は400m、東平の駐車場は標高750m。
350mの高度差を、5.5キロもかけてこなして行きます。
狭い道ですが、それを見越して、所々に対向車とすれ違える場所が設けられています。
「←50m 70m→」みたいな、離合できる場所を示した看板があるので、対向車が来てすれ違えないときは、それを目安にして下さい。
僕が訪ねたのは連休後の平日で、対向車も1台っきり。
でも、夏休みやGW等の連休中は、マイクロバスが連なってやってくることもあります。
クルマで来られる方はよそ見は厳禁です。
大型バスじゃこの道は上れません。
マイントピア別子でマイクロバスに乗り換え、ピストン輸送で東平へ送り込まれるそうです。
そうなると、マイクロバスが行き交う状態になるので、すれ違いとかで渋滞が発生することもあるでしょうね。
「東洋のマチュピチュ」なんて云われ始めて以来、妙に観光客が増え始めてるから、休日は要注意ですね。

林が途切れると谷の奥に海が見えます。
この林道のおかげで、東平へのアクセスは格段によくなりましたが、昔の人たちは、遠登志から延々、山道を通っていました。
重たい荷物は端出場と東平を繋いでいた索道に載せてもらうとしても、人はとにかく、歩け、歩けの時代がありました。
遠登志の登山口にある看板には東平まで1時間30分って書いてありました。
新居浜で買った、妻子へのお土産を手に山道を駆け戻った坑夫たちもいたんだろうなぁ。

くねくね道をのんびり(でしか走れない!)上り、「あと1KM」看板を過ぎて間もなく、自然に家んところに出ました。
自然の家の前の駐車場には車が2台ほど駐まっていたので、管理人さんがいらっしゃるようでした。
自然の家は昔、小中学校だった跡地に建っています。
この自然の家ができたことがきっかけで、閉山後、ずっと放置され、廃墟と化していた東平の整備が始まりました。

駐車場に到着すると、4、5台のクルマとマイクロバスと中型バスが1台ずつ、駐まっていました。
もうちょっと賑やかな様子を想像していたんですが、連休明けでこれだけいたらいい方なのかな。
着いたのは、昼もとっくに過ぎてもう午後3時前。
予定では12時までには着くはずだったのに、寄り道、撮影で、遅くなってしまいました。
よく考えれば、この時間でも観光客がいたらいい方ですね。
駐車場の奥に駐め、そばにあった東屋へ行き、新居浜の国道沿いで買ってきたホカ弁をようやくいただきました。

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