旧別子銅山へ行こう!
東平と一の森
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新居浜市街~河又東平入口
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徒歩
下記写真の場所
  

スタートは新居浜の入口。
国道11号線の東城交差点。

  

11号線は西条~新居浜間で拡張・バイパス工事が進行中ですが、
家が建て込んだこの辺りはまだまだ手つかず。
さて、交差点を南へ、「別子ライン→」方向へ、
松山からだと右折します。

県道47号新居浜別子山線を南下します。
地形的には南“上”だけどね。



沿線にはコンビニやドラッグストアもあります。
おやつとか買い忘れたものがあったら、いまのうちに。



  

山根駐在所前信号交差点を道路案内に従い、左折します。

通称「山根大通り」を東へ。



国領川に架かる新田橋を渡ります。

  

橋を渡り終えたら、山根公園の入口の前を右折します。 

  

新田橋の上から国領川上流を眺めて。
川の左、煙突がぴょんと立ってる通称エントツ山と尾根続きの生子山、
その肩にちょこんと顔を出している串ヶ峰。
川の右には立川山、川の側の建物は角野小学校。

山根公園は多目的広場やテニスコート、
体育館などがある運動公園です。
昔は別子銅山の鉱山社宅や-

明治20年代頃は、山根湿式精錬所がありました。

山根公園 

 当地は、元禄4年の別子銅山開坑以来繁栄した鉱山社宅跡地を、昭和天皇陛下在位60年記念健康運動公園の指定をいただき、市民のスポーツと健康づくりの拠点となるよう整備いたしました。
 モニュメントは銅を基調に、豊かで潤いのある郷土の発展を目指し順風満帆、風を受け未来に向かって漕ぎ出すエネルギーを「動」の帆、恵まれた自然と共生しながらまちづくりを行う和を「静」の錨とし、また300年に及ぶ歴史と伝統を誇る太鼓台の幕、龍と鷲を象徴としてイメージしたものです。

平成6年3月吉日

 新居浜市

モニュメント制作 新居浜機械産業協同組合
制作協力社 住友金属鉱山株式会社別子事業所 住友バイエルウレタン株式会社

公園入口前でかくっと曲がって別子ラインへ。
ちなみに写真の工事看板は山を越えた向こう側。
富郷ダム方面へ向かう際は要注意です。



公園入口から200m。
左側に駐車スペースと手入れされた植栽がきれいな場所があります。
別子銅山記念館と大山積神社があります。

駐車場の先の石段を上がります。

入場料は無料、休館日は要チェック。

  

玉砂利が敷き詰められた大山積神社の境内。
植栽で覆われた斜面の地下に別子銅山記念館はあります。

左側に目を転じると、
境内を縁取るように銅山で活躍した蒸気機関車(黒)と電気機関車(赤)、
客車や貨車が展示してあります。

準鉄道記念物

別子1号機関車

指定年月日 昭和38年10月14日
指定番号 1

日本国有鉄道 四国総局

鉱山専用鉄道用蒸気機関車

明治26年(1893)開通した鉱山専用鉄道用に、ドイツミュンヘンのクラウス社より明治25年(1892)購入の、別子では第1号の蒸気機関車である。

主な仕様 四輪連結タンク方式

大きさ (長×幅×高) 5.1メートル×1.9メートル×2.7メートル
自重 8トン
牽引重量 (時速16キロメートル
 勾配1/100上り)
120トン
昭和31年(1956)~昭和50年(1975) 愛媛県立新居浜工業高等学校に保管
昭和38年(1963)10月 準鉄道記念物愛媛第1号
(国鉄四国総局指定)

別子1号機関車について

この機関車は、別子銅山で明治25年(1892)に、ドイツ・ミュンヘン州、クラウス製造所から鉱山専用鉄道用に購入されたものです。
蒸気機関車としては、松山市梅津寺パークに保存されている「坊っちゃん1号機関車」とともに、四国における鉄道開発初期のものとして、新居浜地方の産業発展のため走りつづけました。
尚この鉱山専用鉄道は昭和4年(1929)から地方鉄道としての営業を開始、ついで昭和17年(1942)には、国鉄新居浜駅との間に連絡路線が増設されて、物資の輸送とあわせて、広く一般の人々の利用をみてきました。
昭和25年(1950)に幹線が電化され、其の後廃車になったこの機関車は、愛媛県立新居浜工業高等学校に、教材として保管展示されていましたが、「別子銅山記念館」の建設にあたって、同所に移設して、永久保存されることになりました。

昭和50年9月15日建立 日本国有鉄道四国総局

かご電車

昭和13年(1938)から閉山(192)まで、東平坑口(新居浜側)←→日浦坑口(別子山村側)間、約4,000メートルの坑内を運行した人員の輸送車。
利用者は電車のつくり、そのままを「かご電車」と呼んで親しんだ。

大型四角鉱車

0.7m3小型ダンプカー

 ともに鉱石・操業用資材を運搬するために用いた鉱車で四角鉱車は、昭和初年から採用、ついで昭和27年(1952)頃から、ダンプカーを主として採用した。

坑内牽引6トントロリー電車

第4通洞専用の鉱・人車牽引用電車

鉱山専用鉄道用 電気機関車 (ED-104号)

昭和25年(1950)鉄道電化の後、鉱石輸送増強のため日立製作所より部品を購入して、別子事業所で組み立てた自社製電気機関車。

主な仕様

2軸ボギー

大きさ

長9.15m×幅2.002m×高3.45m

自重

20t

牽引重量

(時速20.8km勾配1/100)208t

大山積神社拝殿はもう一段上…、と撮影していたら-

じぇじぇじぇ!
木陰からなんか茶色い動物が出てきた!
石段脇の隙間を登ってく前に慌てて撮影。

拡大してみましたが、た、タヌキ?
いや、毛並みはニホンアナグマのようです!
ひょこひょこ歩いてく姿が可愛かったぁ (^^ゞ

そんな珍客と遭遇した後、別子銅山記念館へ向かいました。
ご覧の通り、記念館は半地下のような不思議な造りをしていて、
屋根を覆っているのはサツキです。
鉱山開発で荒廃した山を毎年100万本も大植林して自然に還した別子銅山らしい、
自然景観に溶け込んだ素晴らしいデザインです。

入口。

この辺りでよく見かけるの石積みの間を登り-

ちょっとした広場の先に-

玄関があります。
入館料無料ですが、入って右の受付で記帳してね。



  

さあ、お山さ行くべ、と走り出した途端、右側にオブジェ発見。
そこは鉱石を山根製錬所に搬入するために架けられていた生子橋の入口で-

「精錬夫像」
精錬夫をイメージした銅像でした。

「精錬夫像」

「精錬夫」とは、砕かれた鉱石を焼き、その焼鉱を一番吹き更に二番吹きと「吹床」で吹き分け、実に2ヶ月もの時間をかけて、製品の一歩手前の「あらどう」の状態にする仕事に従事していた人たちです。

(生子山の煙突は山根湿式精錬所用のものです。)

作者 阿部誠一

  

同じ場所にあった、
名勝地「別子ライン」ガイドマップ。



  

今度こそ、アクセル全開!と思ったら、
左側にえんとつ山の登山道を発見。

なぬなぬ、健脚なら10分ほど、
並脚なら18分ほどで山頂に行けるとな。
今度、近くに来たとき、寄ってみるべさ。



  

ほんで、ブイブイ走って、山根公園から3.7kmほどで、
道の駅「マイントピア別子」に着きます。

目立つ斜張橋「端出場大橋」を渡り-

ゆったり余裕のある駐車場を奥へ進み、駐車。

  

売店横の観光ガイドマップの数々。

  

マイントピア別子のアトラクション案内。

観光地お約束の顔出し記念写真ボード。

温泉やレストラン、売店が入っている本館。
右のスロープを上がると鉱山鉄道のりば。

温泉や「観光坑道」などの入場券売り場。

道の駅と云うより、テーマパークなのでした。
温泉は結構、地元の人も利用されてます。
(でも、大人800円は高いなぁ (^^ゞ

温泉「ヘルシーランド別子」は4階。
鉱山鉄道のりばは2階、レストラン、売店は1階です。

本館1階。

エレベーター横に新居浜太鼓台が!

2階から鉱山鉄道のりばへ。
ちょうど、鉄道が戻ってきたところでした。

一度、乗ったことがありますが、
トンネルをくぐったり、橋を渡ったり、乗車時間は短いけれど、
観光坑道への導入としては最高、期待が膨らみました。

実際に火薬庫だった坑道を観光用に改造した観光坑道は、
最近、リニューアルされたようです。
全長は333m。
江戸、明治以降の銅山の暮らしぶりが再現されていたり、
採掘を模擬体験できたり。
北海道は夕張にある観光坑道とか、僕はこの手の施設が大好きです。

新居浜ふるさと観光大使をやってる
水樹奈々さんの解説を聞きながら、
鉄道に乗れるぞ。 

2010年4月10日に来園したんだとか。
(旧ブログより)
どーでもいいけど、かをりよりなな推し。

銅山時代、この地は「端出場(はでば)」と呼ばれていました。
別子銅山最後の採鉱本部が置かれ、
採鉱の拠点になっていた時代もありました。
東平などから索道で鉱石が運び込まれ、
選鉱された鉱石は下部鉄道で町へと運ばれて行きました。
第四通洞と呼ばれた坑道が間近にあり、
坑夫たちが暮らす社宅もたくさん建ち並んでいました。

昭和初めの頃の端出場。

昭和30年代初め頃はこんな感じ。



登山基地(集合場所)としても最適な道の駅を後にして、
ささ、急ぐべなと思いつつ、また寄り道…。

道の駅の対岸にある旧水力発電所。
まさに近代産業遺産って雰囲気ぷんぷんです。

イベント広場の奥にある四通橋(左)と足谷橋(右)を見下ろして。
四通橋の延長線、足下には第四通洞の坑口があります。

四通橋の鉄骨のサビ具合が素敵です。
さすがに通行止めだけど。



道の駅から1kmほどで、突然出現するループ橋「青龍橋」。
ちなみに、奥の鹿森ダム側が第1青龍橋、
手前が第2青龍橋と、2本の橋でできてます。

黄色い注意看板も独特です。

二つの狭い隧道とヘアピンカーブで高度を稼いでいた旧道を、
改善するためとはいえ、贅沢すぎかな (^^ゞ

  

一応、旧道も生きてます。

二つの隧道も変わらずで、帰りにすれ違った山自転車乗りは、急坂な旧道がお好みのようでした。

ループから見た鹿森ダム。



  

ループ橋で鹿森ダムの上に出て200mばかり進むと、
小女郎川に架かる新旧の仙雲橋。
ここいらは遠登志と書いて“おとし”と読む地域。

橋のたもと、旧道の入口は現在、遠登志渓谷への入口になっています。
酒井黙禅の「土佐越えの 遠登志の橋や 山桜」句碑のほか-

「仲持ち像」も。

仲持ち像

「仲持ち」とは、別子銅山の山中で製錬された「あらどう」を運び出し、また、帰りには山中での生活に欠かすことができない「日用品」や「食料」などを、男子でおよそ45キロ、女子でおよそ30キロを背に一歩一歩山道を踏みしめ運搬していた人たちです。

作者 阿部誠一

  

「遠登志渓谷遊歩道案内図」

  

徒歩が唯一の交通手段だった頃、
遠登志はかつて東平への玄関口でした。
この売店はその当時からありました。



  

その東平への登山口は売店から150mほど先に。

往時を偲んで歩いてみたい登山道です。

「東平まで 2.5km 1時間30分
 銅山峰ヒュッテまで 5.0km 3時間
 銅山峰まで 6.0km 3時間30分」 



足谷川に沿って遡る県道。
フィトンチッドが充満する緑の道です。
谷の奥に聳えて見えるのは沓掛山。



  

清滝トンネルの入口から右に旧道が分かれていて-

別子ラインの景勝地のひとつ、清滝へ行けますが-

落石の恐れで現在、通行止めでした。



  

清滝トンネルを出て200mほど進むと河又(こうまた)に着。

  

鈴尾谷川に架かる時雨橋の手前に、東平地区への入口があります。

ひとりごと

ちょっと前にダムカード集めの旅で新宮ダムや富郷ダムまで行きました。
別子山をずっと走り、別子ラインを下って戻ってきたついでに、河又にある東平への入口を確認して帰ってきました。
別子ラインは何度も走ったことがあったけど、東平入口はよく分かってなくて (^^ゞ
入口も分かったし、東平には前々から行きたくて仕方なかったところだったので、快晴なお天気が続いてた初秋、出かけてきました。
上では都合上、新居浜の東城交差点からスタートしています。
実際は、松山から新居浜までは国道11号線の旧道を走って新居浜で行きました。
国道の旧道と云うか、もっと古い時代の街道の讃岐街道です。
讃岐街道は、大体、国道の南側を通っていて、古くからある集落を繋ぐように1.5車線の道が続いています。
旧道は圧倒的に通行量が少なく、大型トラックなんかほとんどいません。
くねくねカーブ、起伏もあったり、直線的な国道に比べれば遠回り。
ときどき、農耕車が前を塞いだり、飛ばせない道です。
もともとスクーターは時速30キロまでだから問題ないけど。
急がない安全重視な旅なら、旧道は最適です。
丹原までは何度か走ったことがあったのですが、小松以東は今回が初めて。
タブレットPCの地図アプリで道中、何度も現在地確認しながら、走りました。
途中、道沿いにあった、湯之谷温泉にも立ち寄りましたが、足湯ができてたり、建物もリニューアルしてて驚きました。
ルートを間違えて、西条の加茂川に架かる歩行者用の橋をスクーターを押して渡ったりしました。
新居浜の県病院近くでホカ弁を買いに国道に出るまで、ほぼ、旧街道をなぞることができました。
知らない町、見知らぬ風景を思う存分、満喫できました。
ある意味、お目当ての東平の前にお腹いっぱいでした (^_^)

山根公園の南にある別子銅山記念館も訪れたい場所でした。
あの屋根に植栽があって半地下構造の建物も見てみたかったのでした。
境内で展示されてる鉱山列車を撮影していたとき、なにげに大山積神社の方を振り返ったら、あの動物が不意に現れたのです。
山根公園側に立つ鳥居の脇から、子犬ほどの大きさの茶色い動物が出てきました。
僕のことをまったく気がついていないのか、それとも図々しいのか、ゆっくりな足取りで日向を歩いて行きます。
そして、神社に至る石段の脇の通路へ向かって行きました。
慌てて、カメラを構え、シャッターを押しました。
一目でタヌキじゃないと思いました。
体型的にはタヌキだったけど、顔の黒い部分がタヌキのそれとは違っていたからです。
で、アナグマだと思いました。
アナグマには新宮ダムに行ったときも出会っていて、そいつも僕の存在を無視して堂々と去って行きました。
今回、ネットでタヌキとアナグマの違いを検索して勉強したので、次からはちゃんと区別できると思います。

さて、別子銅山記念館ですが、そんなに大きい展示スペースじゃないので、10分ほどで見学終了。
ちなみに、内部は撮影禁止です。
元禄4年(1691年)の開坑から閉山まで一貫して住友が経営した銅山経営の史料を保存展示するために、昭和50年(1975年)に開館しました。
館内は、1.住友の歴史を紹介する「泉屋歴史コーナー」
2.銅山の開坑から最近の関連事業まで裾野を拡げた「歴史コーナー」
3.鉱石などの「地質鉱床コーナー」
4.ここで働いた人たちの生活をしのばせる「生活風俗コーナー」
5.西洋の技術が導入されて以降の機材が並ぶ「技術コーナー」
以上、5つにコーナー分けしてあります。
ちなみのちなみに、住友グループ広報委員会のサイトに、館内各所を360度パノラマで見られるページがあります。
アリの巣のように地中を堀り巡らされた坑道をワイヤーで表現した展示物。
江戸時代から昭和にかけて行われた様々な採掘方法(ズリを外に出さないで掘る方法)を解説したミニチュアは面白かったです。
とは云え、急ぎ足で見て回ったせいで、展示品の解説を読む暇もなく出てきちゃった。
いつか、そうだなぁ、エントツ山をお山歩するときにでも、ゆっくり、見学し直したいと思っています。

ゆっくりできなかったと云えば、マイントピア別子も。
温泉は入ったことがないし、観光坑道も昔、1度っきり。
あれから観光坑道はリニューアル、ナレーションが水樹奈々ちゃんの美声に変わった電車にも乗りたい~。
マイントピア別子は銅山時代、端出場と呼ばれた場所。
旧別子銅山時代の遺物がたくさんあるんだけど、観光坑道に遊びに行ったときの僕は別子銅山の知識も乏しい状態でした。
いまなら、もっと、展示物の一つ一つに興味を持って楽しめそうな気がしてます。

観光坑道と云えば、北海道の夕張の夕張炭鉱跡にある石炭博物館はよかったなぁ。
日本最大規模って自慢するほどのものはあったなぁ。
正直、マイントピアの数倍、面白かったです。
メインはホントの坑道を利用した観光坑道。
天井を支える丸太とか、羽目板の間から落ちてくる水とか、大きな採掘機械を動かせたり、ムード満点。
でも、真冬の雪が降りしきる中、お客さんは僕ただ一人っきり。
照明も薄暗い坑道は静かすぎて、採掘風景を再現したマネキンがセンサーで突然動き出してびっくり。
自分で動かした大きな採掘機械の大きすぎる音に怖じ気づいたり、いろんな意味で印象的な博物館でした。

マイントピア別子を後にし、ループ橋の青龍橋へ。
昔のくねくね登って高度を稼いでた旧道から随分、変わりましたが、変わりすぎ、県道にしてはお金かけ過ぎ?
でも、ループ橋を走るのは楽しいです。
久万の柳谷にある四国カルストへの導入路は半ループ橋ですが、あれも走る度、なぜだかわくわくします。
ループ構造なんて、高速道路のインターチェンジとか、珍しくないんだけど、スクーターで走れるところは少ないから。

別子ラインはいつ来ても気持ちのいい道です。
通行量も少なく、安心して走ることができて、景色もいいし、空気も美味しい。
特に紅葉の季節は言葉を無くすほどに素敵です。
まるで燃えるように紅葉した山が、驚くほどに美しく、それはそれは、過ぎて行く時間が愛おしいと感じるほどに。
もう少し、家から近かったらよかったのに…。

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