旧別子銅山へ行こう!
東平と一の森
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駐車場~インクライン跡~貯蔵庫跡~喜三谷
距離 約300m
下記写真の場所
  

東平散策のベース、駐車場の周りには、
東平歴史資料館、マイン工房、公衆トイレ、東屋などがあります。
この場所はかつて、電車乗り場と機械修理工場などがありました。
大屋根の建物が建ち並び、プラットホームから線路が延びていました。

  

「マイントピア別子東平案内図」

  

プラットホーム跡

プラットホー厶は、東平から第三通洞へ、さらには別子側の日浦までを結ぶ電車の乗り降りをするための場所です。
かご電車は、一般の人が利用する客車のことで、その様子から「かご電車」と呼ばれています。
人車(じんしゃ)は坑夫が通勤に利用する車両のことで台車に座席がある程度の簡単な構造になっていました。
 昭和13年(1938)から、人車の後にかご電車が接続され、一般の人が別子山日浦まで行くための唯一の交通手段として活躍しました。
プラットホームを出発した電車は、プール下のトンネル(通称:小マンプ)を通り、喜三谷(きぞうだに)のトンネル(通称:中マンプ)を通り、第三通洞に至ります。
 電車は蓄電池型と、電線から電気を取って動いていたトロリー型もありました。
電車の迎行は朝・昼・夕方の3便でしたが、夕方の電車に乗り遅れたり、急用の場合、また筏津の人が東平で夜の映画を見ての帰りなどに特別電車(特電)を出すこともあったそうです。
 東平、日浦間は30分程で結ばれていました。
 東平坑が閉坑した後、かご電車は5年間は運行されていましたが、一日2便に減少されました。
 昭和48年に35年の歴史を閉じました。



  

駐車場の山側にあるのがマイン工房。
正面の階段はいまは通行禁止ですが、
駅舎へ降る階段として利用されていました。

階段はダメなので、
向かって左下からスロープを登り、
階段の下をくぐってくと-

煉瓦造りの古いけど新しさも感じる「保安本部跡」。
現在は銅板レリーフ作りが体験できる「マイン工房」。
訪問当日は残念ながら休館日でした。

  

保安本部跡

 明治35年(1902)頃に第三通洞の開鑿(かいさく)や電車用の変電所として設置された。
その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。
明治38年(1905)頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。
時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。
昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。
その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。
第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。
 現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している。

ほあんほんぶあと 小学生用解説

 1902年頃に変電所として建てられた。
その後、林業課の事務所、消防部門や警備部門を担当した保安本部などに使われた。
東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。
現在は、マイン工房として利用されている。

マイン工房のある高台は見晴らしも楽しめます。

木がちょっと邪魔してるけど、海まで望めます。

弓削島や高井神島、
瀬戸内対岸の尾道・福山市に属する島影も遠望できました。

お山ですからね、僕は見ませんでしたよ。

  

午後になっても車の出入りがちらほら。
昔はクルマじゃなく電車が出入りしてたんだよなぁ。
時の流れで、なんか、想像すら難しくなってるけど。

昔はこんな感じでした。
多数の線路が敷設された駅がありました。

昭和初め頃は、後ろの山に社宅が立ち並んでました。

閉山後はこんな感じで荒れ放題になってました。
木の建物は撤去され、石の建物だけが残されてます。

駐車場に降りて「マチュピチュ」を見に行きませう。



  

駐車場の手前で見かけた、目立つ看板のある降り口へ。

この目立つ看板が目印。

遺構へは200段を優に超える220段の階段を下ります。

  

階段はインクライン跡地を再利用。

インクライン跡

 大正5年(1916)頃、東平・端出場索道の物資運搬の接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。
動力は電気巻上げであった。
複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていた。
 インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年のマイントピア別子・東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。
 インクラインは、明治37年(1904)に完成した四阪島製錬所や、大正14年(1925)に完成した新居浜選鉱場でも上部への鉱石等の運搬手段として設置されている。

インクラインあと 小学生用解説

 1916年頃に上の段の電車ホームと下の段の索道基地との間につくられた荷物を運ぶための施設(ケ-ブルカーのようなもの)。
生活用品、木材などを運んだ。

インクライン跡

 生活用品や資材を引き揚げたり降ろしたりするためにインクライン(傾斜面にレールを敷いてトロッコを走らせるケーブルカーの一種)を建設しました。
このインクラインが、220段の長大な階段に生まれ変わりました。

220段… (^^ゞ
帰りのことを考えただけで脚が重くなりそうだけど、
降りねば逢えない「マチュピチュ」。

アジサイに囲まれた大階段。
インクラインを残しといてくれた方が、
きっと楽だったろうに… (^^ゞ

下から見るとこんな感じ。
残念ながら階段でしか往来できません。
バリアフリーは期待しないで下さい。



東屋に迎えられ、右へ進むと-

花崗岩のブロックが山と積まれた遺構の側面が目に飛び込んできます。
ちなみに、階段を降りた場所には、
昔、インクラインへ繋がるレールが敷設してありました。

そのレールが繋がっていたのが、
この索道停車場と貯蔵庫跡、
東洋のマチュピチュと呼ばれる巨大な近代産業遺跡です。
産業遺跡と云われなければ、
戦争遺跡、要塞の類いかと勘違いしそうなほどな重厚感です。
いまは植栽で埋まる前の広場には、
大きな平屋建ての索道(リフト)の駅舎が建っていました。
大鍋のような搬器に鉱石が積み込まれ、
現在、道の駅マイントピア別子がある端出場(はでば)や黒石駅まで運ばれていました。

赤黒く、時の流れを感じさせるほどにくすんだ煉瓦と花崗岩ブロック。
場違いな場所に突然出現した古代遺跡のようにも見えます。

手前にある煉瓦造りの角張ったものが
索道施設跡の一部です。

索道基地跡(花木園)

 明治38年、東平の索道基地がここに完成しました。
 鉱石・生活用品・資機材等を東平・下部鉄道黒石駅(昭和10年からは端出場)迄運んでいました。
現在は、東平ゆかりのシャクナゲやドウダンツツジなどを植栽した花木園となっています。

この施設がどんな風に使用されていたのか、
現地には詳細な解説板などがないので、
想像するしかありません。

煉瓦壁の内側は1.5mほど高くなっていて
錆びた鉄の基礎が残っているのみです。
リフトのロープを巻く回転ギアがあったのかも。

暖炉のような正面の穴は、
スピード調整、ブレーキ操作を行う、
運転操作盤でもあったのかな。

解説看板に登場する鉱石を運び出す索道施設の写真ですが、
中央に写っている四角い煉瓦壁はまさにこの施設のものです。
この索道は、松山城の観光リフトのように、
搬器とロープが固定されたものではなく、
自動でロープをつかんだり離したりする、
スキー場の高速リフトのような仕組みが取り入れられていました。
戻ってきた空の搬器はロープを手放して写真左側を抜けていき、
奥で鉱石が積み込まれて、右側から戻ってきます。
おじさんのフォローでロープに戻った搬器は、
自らの重さでロープをつかみ、下界に下る、
そんな仕組みになっていたようです。

索道はまず、端出場より下にあった黒石駅まで繋がりました。
その後、第四通洞が完成し、端出場に選鉱場、貯鉱庫ができて、
索道も端出場へと切り替えられました。
ちなみに、東平~端出場間の延長は3575mもありました。
昭和43年の東平閉山に併せ、索道も廃止されました。

四角い施設の後ろを見ると、
貯蔵庫(石垣)の壁に等間隔で四角い穴が並んでいます。

近づくと、肩幅ほどの四角い穴です。
ほとんどは詰まってしまっていますが-

抜けてる穴を覗くと、斜め上に穴が通っています。
ここから、選別された鉱石が落ちてきていたのでしょう。

さて、広場の柵から谷を見下ろすと、
赤いトタン屋根の建物が立ってました。
これは採掘集落を復元したもので、
建物の前の四角い枠は建物の基礎やかまどです。
一応、降りて行けますが、草まみれだし、
帰りがしんどそうなのでやめました (^^ゞ

大正時代の東平。
インクラインが見えます。

最盛期の東平。

昭和30年当時の索道基地より下の集落。
木造住宅はすべて撤去され、石垣や基礎が残るのみ。

向かって右側にある階段で、
石積みの上へ。

途中に実を結んでいたマユミの木。

女性の名前のようなマユミは雌雄異株。
実をつけるのは雌株のみです。



ここも平らかな広場になってます。
この広場にあったのは 「選鉱場」と呼ばれた施設。
写真左の巨大な石積みは「貯蔵庫跡」です。
貯蔵庫跡の石積みもまた駐車場や子供広場がある場所に迫るほどに、
さらに高くそびえています。
貯蔵庫に貯められた鉱石は自動機や手で選別され、
鉱石と、鉱石を含まない素石とに分けられました。
そして、選ばれた鉱石が下の索道基地へ落とされ、
搬器に積まれ、麓へと運ばれて行く仕組みになっていたようです。
谷側にある煉瓦造りの塔はまるで煙突みたいですが-

内部に空洞はありません。
石や砂利でみっちり充填された上に、
厚いコンクリートが詰められています。

なにかを支えていた柱でしょうね。
谷側の貯蔵庫へ鉱石を落とすための、
機械的な仕組みがあったのかも。

索道基地跡の解説板が立っています。
下の広場に立てた方がいいような…。

  

索道基地跡

 明治26年(1893)から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ヶ山丈~端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年(1902)、第三通洞(東平坑口~東延斜坑底問)の開通に伴い、輸送路の充実を図るために明治38年(1905)に東平~黒石駅間(3.575m)にドイツ人の索道技師フライベルトにより自動複式索道が設置された。
途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継ぎがされていた。
新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。
その後、昭和10年(1935)には距離を短縮して東平~端出場間(2,717m)とした。
東平~端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転していた。
同年に太平坑~東平間(1,312m)の索道が完成し、嶺北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。
 索道では鉱石を輸送するだけでなく、物資、生活品、木材なども輸送していた。

さくどうきちあと 小学生用解説

 索道場(貯鉱庫、選鉱場、索道基地)の中のー施設。 索道(鉱石を運ぶロープウェイ)では、鉱石を運ぶだけではなく、生活用品や木材なども運んでいた。

貯蔵庫跡を正面から。

貯蔵庫跡

 この巨大な石積みは、貯蔵庫のあったところです。
 坑内から運び出された鉱石は、索道基地から下部鉄道黒石駅(昭和10年からは端出場)に運搬されるまでの間、ここに貯められていました。

石積みにはこんなくぼみが2箇所あります。
くぼみの上には四角い穴があります。

貯蔵庫に貯められた鉱石が出る穴のようです。
穴はすっかり、詰まっています。

もう一段、上にも上がりたかったけど、通行止め。
右のスロープを進むと-

220段の階段の途中に合流します。



残り、100段以上あったかなぁ。

とぼとぼ登ってたら、こんなプレートを見つけました。

駐車場に復帰。
今度は、駐車場の奥にある施設を探検します。
駐車場の端にある東屋の隣にある歴史資料館から訪ねてみました。



資料館に通じる砂利道の途中に-

  

往時の鉱山集落の地図「むかしの東平」があります。

また、駐車場沿いには現在の案内図があります。

  

「別子銅山東平案内図」

こちらが東平歴史資料館の建物で、入口はこんな感じです。
鉱山の町として栄えた当時の東平地区の様子がジオラマで再現されていたり、
銅製品を展示した銅のテーマ館や、映像で学べる東平学習館、
赤石山系自然展示室などがあります。
入場料は無料で、休館日は月曜日(東平自体が冬季閉鎖される12~2月もお休み)です。

と云うわけで、楽しみに訪問したのですが、なんと休館日で見学できませんでした!
訪問したのは連休明けの火曜日でしたが、
図書館とか公共施設の「月曜が祝日の場合は翌日が休館日」ってやつだったのです!
なんてこった! (>_<)オーマイガ
う~ん、西赤石山をお山歩しに来たとき、絶対、見学してやる!
と云いつつ、今度は17時の閉館時間に間に合わなかったりして (^^ゞ

とほほ…な気持ちな真っ最中に、
玄関脇で見つけた「展示場」看板。
奥になにかあるのか?
行ってみるベと、資料館の脇を入っていくと-



おお! トンネル!

第三通洞を経由して日浦まで繋がっていた、
坑内電車のトンネルです。

  

東平にゆかりのある鉱山運搬機器展示場

 東平は、標高750m前後に位置し、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで別子鋼山の採鉱本部が置かれた地域で、最盛期には4,00O人に近い人々が暮らしていた「鉱山の町」でした。
 明治35年(1902)に東平一東延斜坑底を結ぶ「第三通洞」、明治44年(1911)に東延斜坑底日浦を結ぶ「日浦通洞」が貫通し、この路線を走る電車により新居浜地域(東平)と別山地域(日浦)が結ばれるなど、東平は、別子銅山に係る交通輸送の重要な拠点でもありました。
 昭和43年(1968)の東平坑終掘に伴い、東平は、一時廃墟と化し無人の地となりましたが、昭和63年(1988)の「銅山の里自然の家」や平成6年(1994)の「東平記念館」の建設により、今、再び注目されるようになってきました。
 ここに保存・展示しております「かご電車」などは、住友金属鉱山株式会社別子事業所のご好意により寄贈を受けたものです。
鉱山の町として栄えていた東平の華やかな時代を偲ぶ貴重な資料を、平成15年4月1日、新居浜市と宇摩郡別子山村が合併し、新生・新居浜市が誕生したことを記念し、整備いたしました。

平成16年3月 新居浜市

展示場と云いつつ、照明も着いてなく真っ暗ですが。
(資料館が開いてる日は明かりが着いてるのかも)
中に入ってみると、電車の車両が並んでいます。
トンネル自体は頭が当たりそうなくらいに天井が低く、
展示車両もみな、実にコンパクトで、
肩幅くらいなレール幅の軌道に載っています。

2t蓄電車

 おもに小さな坑道で、鉱車のけん引、枕木などの運搬に使用され、古い時代の人力運搬に代わって威力を発揮しました。
東平-日浦間のかご電車(人車)のけん引にも使われました。

かご電車にも乗ってみました。
大人は並んで座れないくらい狭い車両でした。
遊園地の乗り物の方がよっぽど余裕があります。

暗かったので、よく見えなかったけど、
いろいろな車両が並んでいました。

出口にあるのはエアーホイストとスラッシャー。



出口から。

  

トンネルの上は展望広場になっています。
元はプールがあったところですが、後ほど。

軌道跡は車道・遊歩道になっています。
第三通洞目指し、しばし、お散歩。



  

やがて、山側に石積みでできた遊歩道が下ってきました。
展望広場を経由してマイン工房に至る遊歩道ですが、これも後ほど。



遊歩道と合流してまもなく、
喜三谷と書いて“きそうだに”です。
登山者はこの臨時駐車場に駐車して下さいね。

駐車場奥にはサイロのような赤屋根の倉庫と、
柵で封印されたトンネルが口を開けてます。

坑道のようにも見えますが、
坑内電車のトンネルだった穴です。

立ち入り禁止です。

こちらはがら~んとなにもありません。
遠い出口は、第三通洞前の広場です。

喜三谷のせせらぎを撮ってみましたが、
奥を見ると、流木などが橋にまとわりついています。
いまはおとなしい清らかな流れです。
大雨が降れば表情を一転させるのでしょう。
谷の奥には銅山時代の社宅跡があったり、
登山道もあったのですが、
平成10年の台風による土砂崩れで不通になって以来、
通行止めが続いています。

谷川は暗渠に消えて行きました。

ちなみに、喜三谷の清らかな水は、
東平の各施設の飲料水にも利用されているそうです。

舗装路はまだ続きますが、車が入れるのはここまで。

「第三通洞 変電所跡へ →」

  

ここからもちょびっと海が見えます。

ひとりごと

遅い昼食を済ませ、東平散歩スタート。
まず向かったのは、駐車場の脇にあるマイン工房。
古い階段がいい味出してましたが、通行止めで、スロープで上に上がりました。
でも、マイン工房は休館。
公共施設が休館する月曜日を避けて翌火曜日にわざわざ来たのに、休館って…。
最初、観光客が少ないとかで早めに閉めたのかと思い、軽く憤慨しました。
その後で行った東平歴史資料館の堅く閉ざされた玄関ドアの前に立ってようやく、あることに気がつきました。
「月曜が休日の際は翌日」が休館日になるってルールを…。
そう、訪問した日は連休明けの火曜日。
「月曜が休日の際は翌日」の火曜日だったのです。
マイン工房も歴史資料館も入ることができず、初っ端からつまずいてしまいました (T_T)
歴史資料館はホント、楽しみにしてたのに…。
残念なねゃ、残念からげるぞよ~~~~~
あ~あ、マイントピア別子の観光坑道と歴史資料館、いつか、リベンジしなきゃ。
(また来る口実ができてよかったんだけどね。)

駐車場はその昔、鉱山鉄道の駅がありました。
でも、まったく、面影は残ってません。
短くていいから、線路を復活させて、手押しトロッコを押せたりとかできたら楽しいだろうなぁ。

歴史資料館見学には失敗したけど、裏のトンネルでかご電車に乗って、ぷち復活。
第三通洞目指し、坑内電車の軌道跡の車道を歩いて行きました。
喜三谷は登山者向けの臨時駐車場があるだけ。
谷の奥にある喜三谷社宅跡への道は全面通行止めの看板で封鎖されてました。

話は前後しますが、インクライン、貯蔵庫、索道基地の跡。
午後遅くなって訪ねたので、すっかり、日陰になってしまい、写真的には暗くなってしまいました。

インクラインは簡単に云えば傾斜鉄道、もしくは貨物用ケーブルカー。
傾斜地を台車が上下して荷物を運搬する装置です。
全国的に有名なのは、京都の蹴上にかつてあった、琵琶湖疎水から船を降ろしてたインクラインかな。
東平のインクラインは、傾斜は約35度、延長は100メートルほどでした。
索道を使って端出場から来た荷物を荷揚げしたり、第三通洞を通って日浦から運ばれて来た木材を降ろしたりしていました。
鉱石を運ぶ目的じゃなかったんですね。
上にも書きましたが、インクラインが残ってたら、貯蔵庫・索道基地跡の見学も楽だったでしょうね。

貯蔵庫・索道基地跡は壮大です。
東平観光のメインです、「東洋のマチュピチュ」です。
ことさらですが、マチュピチュ(正確にはマチュ・ピチュ)は、インカ帝国の遺跡で、なぞの空中都市と呼ばれています。
木造建築物はすべて撤去された東平で、唯一、残っているのは石の建造物。
その最たるものが貯蔵庫跡です。
でも、一見、軍事要塞のようでもあり、ブロック積みの岩壁のようにも見えます。
下の広場には索道の基地があり、選鉱された鉱石が索道で運ばれて行きました。
もうひとつ上の広場には、鉱石を選鉱する施設がありました。
昔の写真を見ると大屋根の建物が広場いっぱいに建っていたことが分かります。
選鉱した鉱石を端出場に運んだり、端出場に選鉱場ができてからは、鉱石をそのまま搬送していました。
第三通洞よりも下層にある第四通洞が完成してからは直接、第四通洞から端出場に出したりしていました。
搬器には鉱石のほかに、生活物資の運搬にも使われていたそうです。
端出場まで2.7km、索道の支柱を支えていた基礎は点点と山中に残ってるようです。

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