八堂山へ行こう!
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武丈側登山口~八堂山山頂
距離 1085m
標高差 約180m
徒歩
下記写真の場所
送電鉄塔・アンテナ施設

市道武丈丸野線沿い、
武丈公園の少し奥にある登山口(に戻ってきました)。

  

「武丈八堂山公園案内図」、落書きされてます。

ああ、こっちも。
落書きすんな! ぶぁか!

西条市名水・名木50選 八堂山

標高197メートルの八堂山。
ここには美しい自然と文化的な施設がたくさんあります。
「市民の森」の梅林園の梅を始め、つばき、さくら、つつじなど、年中四季折々の花でいっぱいです。
このほか山頂には、市指定史跡の高地性弥生遺跡があり、登山客が絶えず訪れています。
また市内の出土品を展示し展望施設を兼ねた考古歴史館が建設されています。

平成3年3月選定

こちらのコースは通称「歩け歩け運動コース」。
距離は「1085m」だそうです。
道はよく整備されていて歩きやすいです。

登り始めはこれくらいの見晴らしです。



ジグザグ登りながら高度を稼いで行きます。
ひとつ目の角には鳥居が立ってました。

擬木の階段が続きます。

鳥居の角からの眺め、ほんの少し、奥行きが増しました。

鳥居をくぐった後も、曲がって、曲がって-

くねくね登って-



3度目の右に曲がる角にあったのが-

(登山口から)200m地点の看板でした。

道ばたにきれいな花が咲いていたんですが、その花びらに-

小さな、小さなバッタが隠れてました (^_^)

次の右角の木には木の名前が書かれた札が取り付けてありました。

登山道沿いには、こんな札があちこちにありましたよ。
草木の名前に弱い僕にはありがたかったりします。



ん? 道ばたになにか祀ってあるぞ。

八堂大明神とな、祭壇をよく見たら-

なんじゃ、こりゃ (-_-;)
手作り感たっぷりのお不動様?



  

ここで道が二手に分かれます。
直進が運動コースで、左は迂回路&考古館へ行ける道。
ちなみにどっちに進んでも、「百桜園」んとこで合流します。

  

看板も沢山。

迂回路の方も道は同じくらいきれいです。

運動コースですが、分岐からすぐに、また鳥居に出会います。

今度の鳥居は道ばたにあって、
石段の奧にお社が覗いてます。
んじゃ、行って見ませう。



こちらがそのお社、「八堂大明神」です。
その前を小径が横切っていて、お社に向かって-

左は迂回路の方へ-

右は運動コースへと繋がっています。



コースに戻り、左角にあったのが-

400m地点看板。

曲がるとまたあの可憐な花が咲いてて、また足踏み。

角の少し先には、お社の前の小径との合流点。

心地よい森の木陰を登って、曲がって、登って。



小さな日向スポットに立つ外灯は、
No.8とナンバリングしてあります。
いくつかの外灯がいたずらされたみたいで、
夜、点灯できないものがあるみたい。

8番灯の先、路肩を補強してる場所がありました。
乗ると鉄板、ぽわんぽわんします (^^;)



今度の左角は-

600m地点だべ。



曲がった先はちょっと雰囲気が違っていて-

雑木がサクラに変わり、外灯の下でツツジが花を咲かせていました。

ツツジんとこに-

「百桜園」のプレートがありました。

ここいらには、百種類を越すサクラが植わってて、
麓の武丈公園のサクラ共々、春はえらいこっちゃな景色になるそうです。
初夏のような陽気に訪ねたせいで、ぱっと見、
この季節のサクラはほかの緑に溶け込んじゃって区別が付きませんね。



  

百桜園の先にある分岐は、で分かれた迂回路と合流するポイントです。

下りのための看板があります。
ま、迂回路を下っても、そんなに変わりがないけどね。

また曲がり登って-



今度は直線部分に-

800m地点だに。 

この辺りで標高160m程ですが、
周桑平野まで見通せる展望になりました。

あいにく、梅雨前の初期症状のようなモヤがかかってしまい、
東三方ヶ森を頂点とする山並みも消え失せてしまいました。

南の石鎚山系も霞の中、石鎚山本体も見えませんでした。
見えていたのは、すももの高、高森、経ガ峰まで。

  

霞むすももの高、高森、経ガ峰をアップ。

普通の山道っぽい素の道を登っていたら-



右の土手に半円形のフェンスが現れました。
アンテナや給水施設の類いかと思ったら、脇に石柱があって-

「C号居住跡」とありました。
八堂山山頂の弥生遺跡のひとつでした。

と云っても、ぱっと見、遺跡らしくは見えません。
ここからは弥生後期の土器が出土しました。
この辺りはまだ発掘調査が完全ではないため、
2、3の住居跡が眠っている可能性があります。

  

遺跡の先は右カーブになっていますが、
左に考古歴史館へ下る脇道があります。

脇道は手すりもある急坂となっています(後ほど紹介)。

このカーブで登山口から1000m地点となります。

山頂側にA号住居跡がフェンスで保護されてます。

脇道側から見ると運動コースは、
こんな感じのカーブ。
A号住居跡の前を通って-

ベンチの前を左に曲がると-



八堂山山頂に到着です!
キノコみたいな復元住居がお出迎え。

山頂は楕円形になだらかに広い平地となっていて、
この地形を利用して古代の人々が家を建て住んでいました。
それは高地性遺跡と分類されるとても珍しいものです。

キノコみたいな高床式円形倉庫。

当時、モミなどを保管していたと考えられています。

茅葺きの屋根は想像の産物ですが、きれいなおかっぱ頭 (^^;)

入母屋竪穴式住居

 八堂山遺跡は、昭和46年に遊歩道建設工事をきっかけとする発掘調査がおこなわれた。
弥生時代後期とみられるA号、C号、F号が確認されており、このうち山頂部で発見されたF号竪穴式住居跡の遺構上に復元したのがこの建物である。
 大きさは、長さ約7.5m、幅約5.5m、床面積は約30㎡で小判型をしており、周囲に排水溝と思われる溝がある。
内部中央には炉があり、7~8人が生活していたものと思われる。
 復元した建物は、検出された住居跡の柱穴をそのまま使用しており、南北の方向に棟柱が2本、主柱が8本ある。
用材はクヌギを用いており、茅葺きである。
 住居跡からは籾痕がついていた弥生式土器、石鏃、石槍、打製石庖丁そしてシイ科植物の種子の炭化物等が多数出土しており、主要なものは八堂山考古歴史館に展示している。
 八堂山遺跡は貴重な高地性弥生集落として、昭和49年に市の史跡に指定されている。

高床式円形倉庫

 この建物は、A号住居跡上の3層から検出された円形状柱穴特殊遺構を、円形倉庫としてここに推定復元したものである。
検出された柱穴は9個で直径はほぼ20cm、深さは約15cm程度であった。
 建物は直径2.5m、屋根までの高さが約3.5mであり、用材には茅、クヌギ、カシ、ヒノキ、杉などを使用している。
 弥生時代の倉庫は、一般的に長方形のプランを持つ高床式であるが、八堂山遺跡のものは特殊な円形プランであり、籾などを貯蔵していたものと推定される。

入母屋竪穴式住居。
発掘は限定的だったため、こんな住居跡がまだ見つかるかも。

いかにもな姿の復元住居、こちらも想像の産物。
僕はもっと素材もいい家に住んでいたと思います。

休憩所な東屋。

時計や鏡があったり-

ラジオ体操云々の表彰状も (^_^)

山頂南寄り、鬼太郎の家の妖怪ポストみたいなのがあったり、
水道施設、鉄棒、ベンチなど。

一応、ここがゴール、1085m。

経ガ峰方面、天気がよければ-

写真右端辺りに石鎚山が見えるんだけど、
厚い雲の中にお隠れになったご様子、残念。

山頂に水道施設があるのも、
公園整備されているからこそ。

この前をさらに南へ歩くと-



四電の送電鉄塔がそびえてます。

加茂線の61番鉄塔です。

  

鉄塔越しの南方の見晴らし、
かたぶきから櫛ヶ峰、鎌加山へと連なる、穏やかな稜線。

さらに南へと送電鉄塔の巡視路が続いています。

たどり始めてすぐ右側に-

「1号溝跡」の石柱がありました。
ここもまた、遺跡らしさは見当たりません。



そして再び、鉄塔出現。

こちらは、西条火力線の16番鉄塔でした。

真下から。

西側低く送電線が走っているおかげで、
見晴らしが確保されていました。

  

加茂川の大きな蛇行を見下ろして。
加茂の触手の中にいるお山は城跡のある高峠、
その麓の田園地帯のただ中には、歴史深い伊曽乃神社がひかえています。

加茂川とその河口方面、
川によって街と田園が分かれているように見えます。

巡視路は続いています-

次の17番鉄塔に向かって。

かなり急な傾斜を持って。

ひとりごと

武丈公園を過ぎた山裾に登山口があります。
前ページの「ひとりごと」が長文になってしまい、書くの遠慮した、その武丈公園について。
西条市民にはサクラの名所として知られています。
僕は正直なところ、スクーターであっという間に通り過ぎれちゃうくらいの規模だとは思ってませんでした (^^;)
天保6年(1835)頃、庄屋の加藤定右衛門がサクラやカエデを植え、隠居所を建てました。
加藤定右衛門は俳人で、俳名は「武丈」、隠居所は「武丈庵」と名付けていました。
そんなこんなで、自然発生的に、彼が植えたサクラが「武丈桜」と呼ばれ、「武丈」という地名にまでなりました。
(武丈自身は、サクラは「幸桜」と呼んでいたそうです。)
大正から昭和にかけて多くの作品を世に出した詩人・野口雨情は、武丈公園を、
「春は武丈の桜の花に うすらおぼろの夜が続く」
と謳っています。
明治の世になると心ない人たちによってサクラの多くが勝手に伐採され、薪にされたそうです。
さらに、加茂川の堤防を改修した際も、残ってた古いマツやサクラが伐採されました。
もし、荒廃や伐採が一切行われず、昔のままだったら、もっと大規模だったかもしれません。
加藤定右衛門のお墓は、市民の森・歴史考古館に通じる市道ぞいにある常福寺にあります。

今回、訪ねませんでしたが、登山口手前にあった「奧武丈瀧道」の碑の奧武丈瀧。
奧武丈瀧は、いまは、津越の滝と呼ばれています。
津越の滝のある辺りが奧武丈と呼ばれていて、奧武丈にある滝だから奧武丈瀧なのでした。
津越の滝は、複数の滝の総称で、下流から鮎返りの滝、雌滝、雄滝があります。
台風のせいで遊歩道が寸断されてしまい、いまは一番手前の鮎返しの滝までしか行けません。
奧武丈瀧道は、石碑の場所から、現在の道路が市之川に沿って転ずるところ。
尾根に沿って下り、滝へと向かっていくように付けられていました。
この道は、田中大祐(常心)、安藤福次郎(小川)、文野熊次郎(登道)が、私財を投じて切り拓きました。
急斜面な岩盤を難工事の連続だったそうです。
いまは加茂川にかかる中野大橋から津越地区へ入るのが一般的。
後半部分で車の通行ができない奧武丈瀧道は過去のものとなっています。

さて、さて、八堂山の登山道はよく整備されています。
登山口に駐輪場があったり、道ばたに点点と外灯もあります。
山頂の東屋にはラジオ体操の表彰状が飾られてたりと、朝から夕方まで入山する人が結構あるみたいですね。
僕が登ったのは平日の真っ昼間だったので、八堂大明神の入口で落ち葉を掃除されてた方はいらっしゃいました。
登山者らしい人とはすれ違いませんでした。
この遊歩道・登山道は、八堂山一帯が都市公園に指定され、昭和45年に建設工事が始まりました。
すると、山腹あたりから弥生式土器がぽろりぽろりと出土しだしたので、工事は一旦ストップ、発掘調査がスタートしました。
けれど、最初の土器は、昭和43年5月にすでに発見されていました。
西條農高の生徒らが野外調査で八堂山に登った際、引率していた長井数秋が、送電鉄塔の辺りで数片の弥生式土器を見つけました。
考古学の専門家でもあった長井先生は、遺跡発掘調査主任を務めました。
(市教委によって行われた昭和46年3月の第一次発掘調査、8月の第二次発掘調査)
西條農高、南中学校の生徒、大学生らも発掘に参加しました。
住居跡やキノコみたいな円形状柱穴特殊遺構(食糧倉庫)などもそのとき確認されました。
弥生式土器、土師式土器、高坏、刀子、鉄器、釘、打製石包丁、砥石、工作台、石鏃、石槍、握石、鍬様石器などの遺物も出土。
そして、珍しい高地性集落の遺跡だと判明しました。
茅葺き屋根の入母屋竪穴式住居と高床式円形倉庫は、昭和47年に復元されました。
住居の復元に当たっては、トラック3台分ものカヤを用意したそうです。
円形の倉庫は全国的にも珍しい形です。
倉庫があったり、食事しただろう跡が残っていたり、古代の人はこんな高いところで何をしていたんでしょう。
住んでたのかもしれないし、祭祀場だったかもしれません。
僕は思うに、住み込みもできて見晴らし場の機能も有する砦のようなもの。
もしくは、神様に祈りを捧げるシャーマンが住んでいて、貢ぎ物を倉庫にため込んでたのかも、と。
八堂山は麓から手頃な高さ。
なのに、海も平野も見晴らせる場所、縄張りを守りたいものたちには格好の場所のひとつだったに違いありません。
山頂から後ろの山山へ、尾根が続いているので、逃走経路としても役に立ちます。
兵糧的なものを備蓄しておいたのかもしれません。
加茂川をはさんで西側にある高峠というお山には、中世城址の高峠城(高外木城)があります。
あそこも見晴らしのいい場所なので砦が築かれましたから、八堂山にも時代は違うけど、あったのかも。
また、奈良時代から平安時代にかけて、祭祀の場として利用されていたらしい。
古くから、神秘的なものを感じさせるお山だったのかも。

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