西斜面、上林・土山から

  

東斜面、大熊山から

  

東斜面、井内、大平から

  

北斜面、鍵山から

善神山(ぜんじやま,ぜんじんやま)
愛媛県東温市上林・井内
標高1094m
※三角点はありません
前善神山(まえぜんじやま,まえぜんじんやま)
愛媛県東温市上林・井内
標高約1070m
※三角点はありません

善神山は、麓の集落の安寧を見護る祠が祀られているお山です。

石鎚山系から西へ直接連携する皿ヶ嶺連峰にある1253m峰(通称・前々司)から北へ派生した尾根上に善神山は位置します。
ふたつのピークから成り、北のピークを前善神山、南のピークが善神山と呼ばれています。
南に控える善神山が主峰ですが、麓から見上げると、前善神山の三角錐状の山容が特に目を惹きます。

西麓の上林の谷、東麓の井内の谷、ふたつの谷の始まりに位置し、上林側の拝志川と井内側の井内川の支流、それぞれの源流が山麓から発しています。

大部分は植林された人工林です。
南北に連なる稜線部分に針葉樹を中心とした自然林が分布し、幹が一抱えもふた抱えもあるツガの大木が見られるなど、緑豊かなお山です。

“善神”の名が示すように、信仰のお山です。
善神とは、「正法(しょうぼう)を守る神。福を与える神。」(広辞苑)。
仏様の正しい教えを守る神様であり、福を授けてくれる神様のことです。
善神山を見上げる麓の集落、上林・井内地区は奈良時代には開拓の手が入っていました。
けれど、山間に位置するため、平野部に比べれば裕福に暮らせる土地ではありませんでした。
上林地区が過去に属していた「拝志郷」は、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』 のなかにも登場する古い地名です。
南北朝期の資料などには「林郡」と記載されるなど、“拝志”は現代読みの“ハイシ”ではなく、林に由来する“ハヤシ”と読まれていました。
現在見られる段畑や棚田の風景は、その林を先人が少しずつ切り拓き、ようやく手にすることができた賜物です。
一方で、急峻な傾斜地に囲まれている関係上、土砂崩れなどの自然災害に度度見舞われてきました。
地すべりに由来する「蛇持」や「猿谷」などの字(地名)が残るなど、労多くして手に入れたものを一瞬で失うことも少なくありませんでした。
また、大熊城、名越城、花山城、小手ヶ滝城など、山間部にも関わらず、大小の中世城址が多数点在します。
上林峠、井内峠を越えて幾度も侵攻した久万地方の豪族・大野氏などから領地を守るため、いくつもの城砦が築かれました。
当然、麓の集落は争乱の舞台となり、家や田畑が焼き討ちに遭いました。
そのため、心安らかに暮らせるよう願った人々が険しい山頂に祠を建てました。
福を与えてくださる神様、“善神”を祀ったのが善神山の名の由来になったと考えられます。
古来より、山の神様は山から降りてきて山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰があります。
シンボリックな尖った山容の善神山は、善神を祀る以前から山の神様の宿る信仰対象だった可能性も考えられます。

山頂にある祠は前善神山、善神山ともに、それぞれ二つずつお祀りしてあります。
一つは上林、もう一つは井内を向いています。

愛媛県立図書館で閲覧できる古地図“浮穴郡之図”(製作年不明)では、

“ぜんしヶ森”と書かれています。

尾根の基部、皿ヶ嶺連峰の縦走路上にある善神ヶ森(奥善神山)や前々司も、善神山に繋がる山名です。

山岳信仰のお山だった善神山も、林業の衰退や過疎などで訪れる人も少なくなり、尾根上の登山道もしばらくは荒れるに任せた状態でした。
近年、地元有志により皿ヶ嶺連峰登山道の整備が行われ、バリエーション・ルートのひとつとして善神山尾根の登山道も整備されました。
麓からは拝志川源流の谷を遡行するルートがメインの登山道となっています。
ただし、梅雨時や大雨の後など、川の増水が予想される場合は通行は危険ですし、普段も落石、浮き石にも注意が必要です。
源流の谷を遡行するこのルートは往時に村人が山頂の祠にお詣りするために利用した道とは異なると思われます。
井内側からの登山道もまだ確定されていません。

登山口に至る林道沿いには、東温市の自然景勝地のひとつ、白糸の滝があります。
3つの橋が架けられた370メートルの遊歩道の奥に落差30mの滝があります。
四季を通じ、色鮮やかな新緑や紅葉に縁取られ、冬期は氷瀑となる素晴らしい景観が見事です。

12.3km 川内IC
8.5km 900m 田窪
1km 見奈良
2km 1km
砥部拾町 8km 1km 3km
拝志 7km 下林
湧水 1.7km 善神山
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