スタートはしまなみ海道の来島海峡大橋から。

見上げると首が痛くなるほど巨大な柱。

スクーターなので、南側の専用道を走行。

橋の通行料金は片道200円、箱に入れます。

  

見晴らしのいい展望台がある亀老山が間近に見えたら-



大島到着。



「尾道 63km」
近年、愛媛県はサイクリングに比重を置いていて、
路側帯に引かれたサイクリングコースを示す青いラインをよく見かけます。
スクーターもしまなみ海道では自転車扱いなので、
青いラインに沿って次の大島伯方大橋を目指します。
でも、島内を縦断するコースはアップダウンが激しく、
自転車は変速機なしでは結構しんどいでしょう。

峠をふたつ越えて宮窪町へ。
久しぶりに来たついでにちょっと寄り道。



村上水軍博物館へ。
でも、見学はしてられないので、
外観だけ撮影して旅路に戻りました。

村上元吉。
戦国時代から江戸時代の初期にかけて、
能島村上水軍の頭領だった武将です。 

弟の景親(かげちか)
しまなみの島々は村上水軍と縁深い関係です。

小早船。
村上水軍の機動力として活躍した小型の船です。



宮窪漁港から大島伯方大橋へ向かう途中、
鵜島との間の宮窪瀬戸に浮かぶ、
村上水軍の海城・能島(のしま)城があった能島(のしま)を見られます。

写真左の大きな島「能島」と写真右の小島「鯛崎島」はかつて、橋で結ばれ、
能島城は応永26年(1419)、村上雅房(まさふさ)が築城しました。
桟橋や郭跡に東屋があるのが見えますけど、
上陸できるのは渡船が出るサクラのお花見シーズンだけです。

この渦巻く激しい潮流のおかげで能島城は難攻不落の海城となっていました。
最後は、その潮に乗って燃えさかる藁を積んだ大量の小船が押し寄せ、
島は火に包まれ、能島城は落城しました。
船に乗って激流を体験できる「潮流体験」が人気で、
こちらは毎日、出港しています。



大島伯方大橋へ。

50円を箱へ、ぽいっとな。

来島大橋より少し低め、でも巨大な柱。

橋の途中で、橋脚の島となってる見近島に立ち寄れます。

プチ上陸。

  

見近島自然公園の案内図。
訪問時は遠足中の学生らが広場でまったりしてました。

  

見近島までが大島大橋、見近島から先が伯方橋となります。
橋の先は、道の駅に隣接した白い砂浜が眩しい伯方島。
瀬山の向こうに大三島、鷲ヶ頭山も頭が覗いてます。



伯方島上陸。

専用道はくねくね大回りして海岸線、国道317号線まで降下。
大三島へは右、美味しい塩ラーメンが食べたかったら左、木浦地区へ。

道の駅はスルー…。



大三島橋への入口はすぐなんだけど-

相変わらず、長い坂道の迂回路。

大三島橋は自転車・歩行者ともに同じレーンを通行します。

ちなみに、風速15m/sで通行止めになります。



やっと、大三島上陸っ!
料金箱は大三島側にあります。

農道みたいな狭い道に合流します。

合流したら左折して下ります。

  

サイクリングロードの案内図。

下をくぐった-

大三島橋を振り返って。

島の春は陸に比べたら早いようで、ぽかぽか陽気に-

花が彩りを添えます。



瀬戸港の手前に降り立ちました。
写真右は伯方島、間の海は鼻栗瀬戸。

さすが、ここまで来ると、海も透明度が段違い。

クサフグちゃん?
群れてたので撮ってみました。

  

上浦港務所んとこで急に2車線になり、国道317号線復活。
ここ、写真左側に-

「横殿宮跡→」という看板がありました。
なにげに寄り道してみたのですが-

通りからすぐのところに古めかしい鳥居と祠がありました。
木陰が心地よい不思議な場所です。

実はここ、大山祇神社のの旧社殿跡なのでした。
河野玉澄(たますみ)が大宝元年(701)に現在地に社殿を大造営するまでは、
ここにあったのです。

  

国道に戻って100m弱、出口川の河口を左折すると-

川側の道ばたに石積みがあるのが目に入ります。

「みたらしの水(御滴し水)」と云って、
海水の中から真水が湧き出てる不思議な場所です。

転落防止のネットがかぶせてありました。
中にカメラを入れて撮ってみました。

神様が穢れをはらうために清水を湧き出させたんだとか。
この水は大山祇神社に奉納されているそうです。



  

瀬戸港から2kmちょっと、海岸線を走ったところで、
今度は城跡発見。
右の海側に、それはあります。

「自然公園 甘崎城跡 海上160m →」

100m先の防波堤へ。

それはまるで、大島の宮窪で見た能島城趾のような、
小島を最大限に利用した海城「甘崎城跡」。
甘崎城は日本最古の水軍城なのだそうです。

  

愛媛県指定史跡 甘崎城(あまざきじょう)(今治市上浦町甘崎古城島(こじょうじま)

甘崎城は、戦国時代から江戸時代初期にかけての海城(うみじろ)です。
考古学的調査によると、遺物は15・16世紀の年代を示し、16世紀が繁栄の時期と考えられます。
戦国時代は能島や来島の村上海賊衆の拠点として使用され、岩礁に見られる穴柱跡は、繋船(けいせん)施設の遺構と考えられます。
また、干潮時に見られる石列は、藤堂高虎が今治城主だった江戸所時代初期に、改修させた石塁の一部と考えられます。
高さ2~3間半(1間は約1.8m)の総石垣が島の周囲を取り囲み、追手口には内枡形の縄張りが見られます。
島内では、建物の礎石や多数の瓦片も見つかっています。
元禄4(1691)年にこの沖を航行したドイツ人医師ケンペルが、海中に聳える高石垣に驚いています。
それらの多くは、幕末期ころに地元の堤防石垣(塩田など)として使用されたようです。

昔は、潮が引くと島と陸の間に道が現れて繋がる、
「陸繋島」と呼ばれる地形だったそうです。
訪問時は運良く干潮時だったので、砂州がわずかに顔を出していました。
よく見ると、海岸線の砂浜に石が並んでるように見えます。

甘崎城の石積みに使われていた石たちでしょうか?

離れた砂浜の先にあるし。

砂州にカモメ。 

可愛かったのでアップ。

堤防の後ろは海水を引き込んだ水路のようになっていて-

大きなボラがうじゃらっと泳いでました。



城跡から1km足らずで大三島IC。

IC出口の丁字路交差点には看板がずら~り。

ICに併設するように道の駅「多田羅しまなみ公園」があります。
道路端にある施設はレンタル自転車基地や産直所、レストランなど。
奥の丘の上は多々羅総合公園で、
建物は歴史民俗資料館、大三島上浦出身の書家・村上三島の記念館。

「多々羅夢岬」と名付けられた弓状にカーブした建物、
右は産直コーナーで、
尖り屋根から左は物産品センターやレストランが入っています。

覚えられないくらい豊富な種類の柑橘類がずらり。

お土産品が並ぶ特産品センターを抜け、レストラン側へ出ると-

間の通路にふたつの円形の生け簀。

その上には、巨大なヒラメのモニュメント。

道の駅イチ押しのマハタ。

タイやヒラメも舞い踊り。

海岸は公園整備され、
広島との県境にかかる多々羅大橋や生口島が目の前です。

公園、資料館、記念館への坂道は、
多々羅大橋の原付・自転車道の入口も兼ねてます。



記念館前の信号交差点を過ぎ、
坂を下ったとこにコンビニがあります。
コンビニ手前を海に向かって進むとキャンプ場、
コンビニ先の戸板川沿いに上ると多々羅温泉。



  

青刈山、二反山に連なる山並みを正面に見るこの辺りで、
国道317号線は一旦途絶え、県道21号大三島上浦線に変わります。
ちなみに、国道317号線は海を隔てた生口島で再開し、
広島県尾道市で終点を迎えます。



  

井口のこの丁字路を左折します。

  

鷲ヶ頭山山麓の上浦ダムから流れてくる、
井ノ口本川に沿ってしばらく走ります。
山頂のアンテナが目印の鷲ヶ頭山が、
右斜め前方に見ながらの坂道です。



標高80m弱の三村峠を越えます。

峠を越えれば大山祇神社も間もなくです。



  

峠から1.2km下ったところに、鷲ヶ頭山山頂まで行ける、
林道の入口があります。

県道から斜め左に入ります。
入口には「←鷲ヶ頭山登山口」道標もあります。

そこは教善寺の山門前で-

お山に向かう狭い車道が林道・登山道です。

「林道 鷲ヶ頭線 起点 幅員4.0m 延長4.5km」



  

道の駅「しまなみの駅御島」とスーパーが隣り合う場所です。
道路の反対側は市営の藤公園。
奥の山並みが鷲ヶ頭山、安神山です。

平日だったので、それなりに賑わってる道の駅。
しまなみ海道が開通したころは、大型バスがひっきりなしに出入りするし、
駐車場がいっぱいでマイカーが並んでたり、
現状からじゃ想像できないほど、混雑してました。

この後歩く鷲ヶ頭山、安神山の稜線をチェック。

  

思った以上にアップダウンがあるなぁ…、心してかからないと!
でも、見晴らしの良さそうな稜線で、わくわく、わくわくっ!

こちらは帰りに撮った、西日を受けた姿です。



大山祇神社に到着しました!

登山道ですが、鳥居前から50mほど進んだ宮前橋のたもと-

明治川沿いの緑色に舗装された道が遊歩道の起点です。
また、写真右へ行くと-

「せとうち茶屋」と云う、食堂やおみやげ売り場、
広い駐車場を持つ商業施設があります。

ひとりごと

しまなみ海道を渡ったのは、GW直前の、連休で島が賑わい潤う前の静かな平日でした。
今治へ向かう海沿いの国道196号線を走っていると、白装束に身をまとったお遍路さんの姿をよく見かけました。
自転車に大きなバッグを4つも付けたツーリング中の外国人など、春の四国を楽しむ旅人とたくさんすれ違いました。
暑くもなく、寒くもない、旅にちょうどいいお天気でした。
波止浜のスーパーでお弁当を買い、糸山にあるしまなみ海道の原付道へ。
このところ、仕事で度々、しまなみ海道はクルマで渡っていますが、スクーターで渡るのは久しぶり。
大島でお山歩して以来かなぁ。
来島海峡大橋に乗ると、反対側にある自転車・歩行者レーンをサイクリングしてる外国人を結構、見かけました。
いまの県知事が自転車好きだったり、台湾の自転車メーカーの会長を招待してしまなみ海道をサイクリングしてもらったり。
国内外でサイクリングにもいい場所だよと宣伝した効果があったようです。
来島海峡大橋は長さ高さともに巨大ですから、歩いても走っても走行しても、非日常的な感覚を味わえる場所です。
スクーターで走っても、柵の向こうは海、船が小さく見えるくらいの高さがあります。
正直、高所恐怖症な僕には、ぞくぞくっとくる場面が何度もあります。
普段なら写真もたくさん撮るんだけど、今回は大三島まで行かなくちゃなので、ポイントだけ押さえて、足早に渡りきりました。
大島も伯方島も同様に、足早に通過しました。
と云っても、自動車道を走れるクルマだったらあっという間です。
スクーターはいちいち、橋から下道に降りて走ってまた橋に上がって、の繰り返しなので、時間がかかります。
すぐってわけにはいきません。
路側帯にサイクリング・ガイド用の青い線が引いてあり、松山・今治から尾道まで繋がってたりします。
スクーターもその青線をほぼたどる形で島を縦断してゆきます。
海岸線を走行中、ちょうど干潮時と重なっていたので、まるで川のように流れる潮流も堪能できました。

大三島にやっと着いて、海岸線に出たところで早速、下調べしておいた横殿宮跡やみたらしの井戸に寄り道。
横殿宮跡と云うのは、大山祇神社の旧社殿があった場所だと伝わる地です。
いまの神社は境内も広々としていますが、この宮跡は里の神社なくらいのささやかさです。
乎千命(おちのみこと)(小千命)の子孫で、伊予の豪族・河野氏の初代と伝わる河野玉澄(たますみ)
大宝元年(701)、現在地に社殿を16年もの歳月をかけて大造営し、遷しました。
ちなみに、乎千命は、日本神話に登場する山と海の両方を司る神様「大山積大神(おおやまつみのおおかみ)」の子孫です。
みたらしの井戸は、海中に真水が湧く不思議な場所だと云われていますが、この神秘なる水こそが霊水であり、信仰の中心となっていました。
島で真水は貴重ですし、こんな海岸端でそれが湧いてたら、ありがたがること間違いなしです。
井戸から汲んだ水は大山祇神社の神事に利用されてるそうですが、いまでも真水なのかどうかは、舐めてないから分かりません (^^;)

宮跡からしばらく、気持ちのいい海岸線を走り、甘崎城跡に寄り道。
甘崎城は、堤防の少し沖あい、僕でも泳いで渡れそうな距離にある島全体に築かれていました。
別名、天崎城・荒神城・岸城とも呼ばれた水軍の城です。
村上水軍の城だったとも伝わっています。
元は、大山祇神社を海賊たちから守る防御施設だったと考えられています。
甘崎城の“(あま)”は海人、「(さき)」は防人(さきもり)に由来すると云われています。
築城は、天智天皇10年(671)、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城です。
村上水軍の城になってからか、石積み、石垣、桟橋、逆茂木などが築かれ、郭も3段、確認されています。
カモメが中州で休んでたけど、大潮のときなど、島と陸の間の砂浜が現れて、普通に歩いて渡れます。
でも、お城だった頃は、防衛上よろしくないので、潮が満ちれば海に没する部分にも石垣が築かれました。
海中から聳える石垣はある種、異様な光景だったようです。
廃城から80年後の徳川綱吉が将軍だった時代、ドイツ人医師ケンペルが来日しました。
彼が帰国後に著した『日本誌』のなかで、「水中よりそびゆる保塁あり」と書いているほどです。
大島で見た能島も水軍城。
あっちは船がないと渡れないので、歩いて渡れるチャンスがある甘崎城は城跡好きにはたまらない場所でしょう。
僕も渡りたかったなぁ。
上浦町歴史民俗資料館に行けば、出土した瓦や壷、城郭図を復元した展示もあるようです。
豊臣秀吉が四国を手中に収めたとき、甘崎城は伊予今治の藩主になった藤堂高虎の属城になりました。
高虎が伊予を去ったとき、廃城となりました。
ちなみにですが、江戸時代の大三島は今治じゃなく、松山の領地でした。

多々羅岬にある道の駅で休憩した後、大山祇神社へ。
途中、教善寺の前から始まる林道鷲ヶ頭線の起点に寄り道。
この林道ができたのは昭和48年(1973)のことで、大三島観光の売りのひとつとして登山道整備されたものです。

大山祇神社も、そばにある道の駅やせとうち茶屋も、GW直前で、観光客もまばら。
しまなみ海道が開通した当時は、駐車場からクルマはあふれる、人はこぼれる、そりゃもう、大騒ぎでした。
まぁ、あの頃が異常すぎたんでしょうが、あの光景を見知っている人にとっては、いまの島はまさに「閑散」。
最近は、あの自転車メーカーの会長が宣伝してくれたおかげでしょう。
台湾からの観光客も多く、レンタル自転車に乗った観光客に結構、会いました。
さすがに、お山の上では会わなかったけど。

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