松山/重信 高森山
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林道終点~岩伽羅山山頂
距離 約250m
標高差 約40m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり
  

さて、高森山まで来て、時間に余裕があったなら、
お隣の岩伽羅山にも行ってみましょう。
と云うわけで、ここからはおまけ、岩伽羅山の巻きです。
林道終点の広場の南側にあるベンチの横に登り口があります。

 

 

  

ベンチの後ろにはいろんな看板、道標。

林道にあったのと同じ道標。

地図も一緒。

山頂まで5分。
僕は写真撮りながらだったので、
撮影時間を引いても8分くらいかかりました。

ベンチの右の登山道へ。
凍った落ち葉と霜柱がザクザク、
乾いた音を立ててます。

ウチはコンクリートジャングルの市街地にあるから、
霜柱は珍しくて、うれしそうに撮ってしまいます。

道は西側を巻いていく感じで、
小ピークの裏へ。



  

小ピークの裏に出たら、後は山頂まで尾根伝い。
少しの間、緩く登り進むと-



ぐんと斜度が増す直前に、尾根を横切る堀切(3)がありました。
堀切は城跡独特の人工地形で、敵を足止めさせるための仕掛けです。

※堀切(3)は、城跡から見て3番目の堀切の意味です。

写真で見るとよく分からないけど-

真横から見ると、これくらいの深さ。

  

ちなみに、堀切越しに東に見えるお山はヨソ山。
岩伽羅城の属城だった麓城のある麓山もちらり。

堀切からの登りは、岩が露出した、
ちょっと急な坂。



たどる尾根はこんな感じの細めの尾根で、
行きも帰りも迷うことはないと思いますが、
登り口から山頂まで、林道にあった道標がひとつもないので、
初めての人は不案内で心細いでしょうね。

冬場ならではの木立のブラインド越し、西側の景色。
松山市内方面が見えたり、見えなかったり。



堀切(2)は浅め。
越えて進むと、すぐに-



堀切(1)が出現。

堀切(3)くらい、深めです。

こんな感じの凹です。

底から東を眺めたら、山之内の採石場が見えました。

さあ、山頂はすぐですよ。
右から曲がり登ると-



  

舌状に平らかな場所の端っこに乗ります。
ここは城郭の跡地、郭(2)で、城砦を築くため、
人工的に平らにしただろう平地=郭の跡です。
なんか、見晴らせそうな木立の隙間があったので、
端っこに立ってみると-

  

さっき登ったふたこぶ山の高森山や、東温市の北市境にある山並み、
福見山、明神ヶ森などを見ることができました。

山頂目前、背の高いササのヤブが待ち構えてました。
と云っても、10mくらいしか続かないんですが。

おまけに歩きやすく刈ってくれてるし。
地元有志のみなさん、感謝です。

ササを抜け、右から左へ曲がり登ったら-



岩伽羅山山頂に到着です!

ご覧の通り、岩伽羅山山頂は高森山と違い、
とても開けていて陽の光がさんさんと降り注いで明るいです。

ベンチが向かい合わせでふたつも置いてあります。
ガイドブックにも紹介され、一般登山者も来るし、
小中学校の遠足場所にもなってるようです。

山頂に鎮座する祠。
城跡には大抵、祠が祀ってありますね。

祠の前の、山名が彫られた石柱。

瓦の祠は桜型のぽっちが可愛い感じ。

祠の隣の石の仏塔には「空火水地」の文字。
「風」があったら五輪塔なんだけど。

岩伽羅城跡由緒

和田家代々の居城であった。
天文23年(1554)和田三河守道興の時、武威を募り主家(河野家)に叛き平岡房実に攻められ落城(天文の合戦)。
その後を山城守和田通勝が継承、その子の右衛門尉道繁と河野家に忠節を尽したが天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により河野家が滅び和田家も運命をともにした。

平成20年9月吉日

和田家岩伽羅講

岩伽羅城跡
 標高 687米
 城舘構成 長軸170米、短軸30米、堀切、石畳が出土、階段式連郭構造
 支城 衣掛城(樋口)吉山城(志津川)粉退城(西岡)不動城(山之内)鳥ヶ嶽城(山之内)

いつもの地図と写真→

「和田神社例祭岩伽羅城址参り
 毎年9月第1日曜行事(和田家)岩伽羅講」

20年近く経ち、字が褪せてますけど。

岩伽羅城跡 

標高687米、中世の典型的な山城である。
河野一族和田三河守通興の居城であった。
天文23年(1554)、通興主家に叛き平岡房実に攻められ落城。
その後、和田通勝が継承。
その子通繁が河野家に忠誠を盡したが、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐により河野家が滅び、和田家も運命をともにした。

平成5年4月 史友会

  

岩伽羅城址の縄張り図、
『愛媛中世城館跡』より。

山頂からの素晴らしい眺めは後ほど紹介するとして、
南側に寄ると-

北吉井小の6年生が平成21年12月、
登山記念に植樹した木があったり-

郭(3)への降り口がありました。
つつつっと、5mほど下ると-



  

郭(2)です。
広さは、南北に約21m、東西に約18mほど。
ササヤブだった郭(3)同様、
こちらも夏は雑木が結構、はびこってる感じです。

南へ尾根が下って行ってますが、
この尾根をたどると、
衣掛山の衣掛城址に行くこともできます。
登山道は無いけど。

  

山頂(郭1)に戻り、パノラマを堪能。
南側に一段低い郭がある上、邪魔な木を伐採してくれてるようで、
松山平野から皿ヶ嶺連峰はそのまま、
木立越しですがキラキラ光る伊予灘まで見下ろすことができます。

  

海に向かってのビュー。
手前(写真下部)の影になってる山並みは、
ついさっき上ってきた林道が通ってる市境尾根。

  

南側の眼下には、重信川が流れる横河原の田園風景。
白い建物群は愛媛大学医学部。

林道を走ってきた市境尾根。
さっきスルーした「樋口」三角点は、
写真左の方、木の枝だが重なってる辺り。 

もっと視線を下げると、市境尾根の東側にある谷の「日吉谷」。
衣掛城址がある衣掛山山頂は、
また木の枝が被さって見えにくかったです。

おやつの時間も過ぎてたけど、昼食タイム。
久しぶりにお山でお昼を食べようと思い、
即席のパスタをチョイスしてきました。

背負ってきたお湯を、小型ガスストーブで沸かし、
パスタを投入。

お湯がなくなるまで煮てる間-

タブレットでワンセグを視聴。
南海放送は時々、途切れたけど、見られました。

お湯がなくなってできあがり (*^_^*)
ピリ辛が冷えた体に効いて、おいしかったです。

岩伽羅山でもGPSチェック。

タブレットの現在地も正確-

ハンディGPS機も予定通り。

のんびりしてたら、いい加減に日が傾いてきて、
海が黄金色を返す夕陽っぽくなってました。
さて、帰りましょうか。

ひとりごと

高森山から下ってきた後、岩伽羅山へも行きました。
林道終点の登山口から山頂までは指呼の距離ですから。

岩伽羅山の登山口、ベンチが置いてある辺りは昼間も木陰。
先日の雪が溶け残り、足下から冷気があがってくるような寒さも漂っていました。
高森山から降りたその足で登山道へ入り、霜柱をざくざく踏んで行きました。
小ピークを迂回し、尾根に出ると、冬枯れた森をすり抜けて落ちて来る木漏れ日のおかげで少し体が温まりました。
風も微風で助かりました。
城跡らしい堀切をいくつも超えてすぐに山頂へ。
数年前に初めて訪れたときとさほど変わっていない山頂の風景を見て、どこかほっとしました。

岩伽羅山はその昔、志津川辺りを支配していた和田氏の城砦がありました。
和田氏は重信川上流に沿っていくつかの出城を構えるまでに成長し、武威を誇っていたそうです。
当時の伊予の豪族・お館さまの河野氏に対し、和田通興はついに反旗を翻します。
けれど、河野氏の重臣・平岡房実に攻められ、岩伽羅城も落城し、通興は自害して果てました。
岩伽羅城には一時、平岡氏が入城しましたが、没落した和田氏を憐れんだ河野氏の差配により、再び和田氏が城主となりました。
後は、河野氏の滅亡と同時に岩伽羅城も廃城となり、和田氏は帰農しました。
志津川周辺にはいまでも和田氏の末裔が暮らしていて、「和田家岩伽羅講」という集まりがあるそうです。
山頂城跡や登山道の整備なども講のみなさんが中心となって活動されてらっしゃるそうです。

ちなみに、近年、新たに城跡調査が行われました。
その際、登山道沿いにある堀切は城跡ではなく、ずっと後世の林業に伴って作られた馬車道の後ではないかと考察されています。
その根拠となったのは、それらの堀切が城の後背に位置しているからです。
敵の侵攻を食い止めるためなら、衣掛山(衣掛城)に連なる南側の尾根に設けるのが常道だからです。
北側は道後方面への退路ですし、堀切を設けるには不自然と考えたからです。
ただ、城山にある支城の吉山城から攻略してきた場合は、いまの林道に沿う形で尾根に沿って侵攻してくるでしょう。
その防御のために北側の尾根に堀切を設けた可能性も捨てきれません。

さて、今回は即席のパスタをお山に持って行きました。
いつかお山で食べてやろうとだいぶ前から買い置きしてました。
よくキャンプしてた頃に買った小型ガスストーブでお湯を沸かし、投入。
鍋のお湯がなくなるまで、タブレットPCでワンセグを見ながら時間潰し。
南海放送だけ、ちゃんと映りました。
パスタの袋には7分くらいでできるって書いてありました。
けど、風が出てきたせいでお湯の沸きが悪くなり、プラス2、3分で完成しました。
「唐辛子入りトマトソースのレジネッレ」というピリ辛のトマトソースのパスタでしたが、なかなかに美味しくできました。
お山の上で温かいものを食べるって、やっぱりいいですね。
ただ、調理の間、お山登りで火照ってた体が風に吹かれて冷えてしまったのはマイナスだったかな。

陽もだいぶ傾いてきたので、祠に手を合わせ、すぐに下山しました。

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