へ行こう!
黒滝山山頂~木久ヶ森山頂 | ||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨ | ||||||||||||||||
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①黄色い杭のある踏み跡を東へ下ります。
降り口は木が混んで-
ちょっと急坂ですが、倒木をまたぎながら下ります。
赤いリボンテープもひらひら。
②植林帯を下っていきます。
ふと、右(南)側を見たら、林に切れ間があり、
なにか見えそうだったので、足を運んでみました。
植林・間伐、山仕事のときにできた隙間のようで、
土地境界でもあるみたいですけど、ここからは-
石鎚山、じゃなく、石墨山が見えました。
石墨山のアップ。
③植林帯の下りには明らかな踏み跡があります。
幅は1mほど、深いところで数十センチくぼんでいる、
溝のような踏み跡がずっと続いています。
けもの道ではここまではっきりと大きな踏み跡にはなりません。
この稜線が奈良原神社への参道や修験道の道だった頃に、
適度な往来があった証しです。
④往来があった頃の名残を残す碑が立っていました。
「左 黒瀧社 五丁」と彫ってあります。
向き的には黒滝神社は右方向になります。
石の根元が露わで、木にもたれかかるように置かれているので、
元は違う場所に立っていたのでしょう。
石鎚さんと兄妹関係にあった黒瀧神社も往時は賑わっていました。
奈良原神社の参拝者と併せ、大勢がこの尾根を行き交ったのでしょう。
凹んだ踏み跡がそれを物語っています。
⑤ここいらは細尾根、傾斜も落ち着き気味。
尾根をたどっていると-
⑥山頂目前の鞍部のような場所に着きましたが、
細尾根と山頂との間に大きな溝が横切っています。
真横から(左が山頂側)。
これは木久ヶ森が城跡であった証しの「堀切」。
防御施設のひとつで、深さは1.5mほど。
堀切の中にまた-
「右 黒瀧社」の碑(今度は方角が合ってます)。
堀切から歩いてきた細尾根を振り返って。
岩がゴロゴロと露頭していますが、石垣にも使われてた?
山頂への最後の登り。
山頂の地形線が見えているので、たいして登りません、がんばっ。
⑦山頂に向かっての目立つ踏み跡はありません。
まっすぐ登るだけです。
⑧木久ヶ森山頂に到着しました!
山頂は楕円状に広い平地で、
築城に当たって整地された名残だと思われます。
平地の中心に立つ、周囲の人工林・針葉樹とは明らかに異なる、
シンボリックな木。
主のような存在感だったので角度を変えて撮影。
菊ヶ森城の縄張り図です。
北と南、併せて6つの郭がありました。
北側に行くと、下にも平地、郭の跡が見て取れました。
あの水たまりはヌタ場、ぶひぶひ。
東側には赤いテープがあり、下を覗くと-
丹原大山・西山へ向かう稜線が続いてました。
今度は南側。
こちらに郭跡が、北側のより広めです。
で、降りて確かめることにしました。
⑨左が山頂側。
堀切をはさんで、平地が段段に連なっていました。
段状の郭は南斜面にあることから、
道前平野に向かって威勢を示す必要があったのか、
効果を求めてのことだったのかな。
郭の下部から山頂に向かって。
ひとりごと | ||
先日、玉川の楢原山に久しぶりに登り、山頂から北に延びる尾根をたどって古権現山まで短い縦走を楽しみました。 ちなみに、東三方ヶ森稜線の西側、明神ヶ森方面も同様で、かつては道がありました。 西山興隆寺 ←→ 黒滝神社 ←→ 東三方ヶ森 ←→ 楢原山 ←→ 奈良原神社 ←→ 明神ヶ森 ←→ 福見寺。 さて、木久ヶ森。 県教委が出している資料『愛媛中世城館』から、菊ヶ森城の部分を抜粋しておきます。 城館番号:12-10 さて、下山時の状況について。 下山後、ちゃんとお墓参りもできました。 |
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