黒滝山・木久ヶ森
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黒滝山山頂~木久ヶ森山頂
距離 約320m
標高差 約70m
徒歩
下記写真の場所

黄色い杭のある踏み跡を東へ下ります。

降り口は木が混んで-

ちょっと急坂ですが、倒木をまたぎながら下ります。

赤いリボンテープもひらひら。



  

植林帯を下っていきます。
ふと、右(南)側を見たら、林に切れ間があり、
なにか見えそうだったので、足を運んでみました。

植林・間伐、山仕事のときにできた隙間のようで、
土地境界でもあるみたいですけど、ここからは-

石鎚山、じゃなく、石墨山が見えました。

石墨山のアップ。



植林帯の下りには明らかな踏み跡があります。
幅は1mほど、深いところで数十センチくぼんでいる、
溝のような踏み跡がずっと続いています。

けもの道ではここまではっきりと大きな踏み跡にはなりません。
この稜線が奈良原神社への参道や修験道の道だった頃に、
適度な往来があった証しです。



往来があった頃の名残を残す碑が立っていました。
「左 黒瀧社 五丁」と彫ってあります。
向き的には黒滝神社は右方向になります。
石の根元が露わで、木にもたれかかるように置かれているので、
元は違う場所に立っていたのでしょう。

石鎚さんと兄妹関係にあった黒瀧神社も往時は賑わっていました。
奈良原神社の参拝者と併せ、大勢がこの尾根を行き交ったのでしょう。
凹んだ踏み跡がそれを物語っています。



ここいらは細尾根、傾斜も落ち着き気味。

尾根をたどっていると-



山頂目前の鞍部のような場所に着きましたが、
細尾根と山頂との間に大きな溝が横切っています。

真横から(左が山頂側)。
これは木久ヶ森が城跡であった証しの「堀切」。
防御施設のひとつで、深さは1.5mほど。
堀切の中にまた-

「右 黒瀧社」の碑(今度は方角が合ってます)。

堀切から歩いてきた細尾根を振り返って。

岩がゴロゴロと露頭していますが、石垣にも使われてた?

山頂への最後の登り。
山頂の地形線が見えているので、たいして登りません、がんばっ。



山頂に向かっての目立つ踏み跡はありません。
まっすぐ登るだけです。



木久ヶ森山頂に到着しました!
山頂は楕円状に広い平地で、
築城に当たって整地された名残だと思われます。

平地の中心に立つ、周囲の人工林・針葉樹とは明らかに異なる、
シンボリックな木。
主のような存在感だったので角度を変えて撮影。

菊ヶ森城の縄張り図です。
北と南、併せて6つの郭がありました。

北側に行くと、下にも平地、郭の跡が見て取れました。

あの水たまりはヌタ場、ぶひぶひ。

東側には赤いテープがあり、下を覗くと-

丹原大山・西山へ向かう稜線が続いてました。

今度は南側。
こちらに郭跡が、北側のより広めです。
で、降りて確かめることにしました。



左が山頂側。
堀切をはさんで、平地が段段に連なっていました。

段状の郭は南斜面にあることから、
道前平野に向かって威勢を示す必要があったのか、
効果を求めてのことだったのかな。

郭の下部から山頂に向かって。

ひとりごと

先日、玉川の楢原山に久しぶりに登り、山頂から北に延びる尾根をたどって古権現山まで短い縦走を楽しみました。
その尾根は、いまではほとんど誰も見向きもしませんが、尾根に沿って歩くことができます。
それは往時の奈良原神社参詣の道、修験者がたどった道でした。
牛馬の守護だった奈良原神社には、山越え谷越え、牛や馬をつれた人たちもお参り訪れたそうです。
楢原山自体がご神体で、山岳信仰の場でもあったので、山に籠もって修行する修験者が数多くいたそうです。
その参道、修験の道は、この黒滝山から木久ヶ森にかけての尾根にも重なっていました。
丹原町西山にある、秋は燃えるような紅葉に彩られることで有名な西山興隆寺が起点で、裏にある滝で水垢離をした後、入山。
東三方ヶ森へと続く稜線をたどり、中三方ヶ森から北へ延びる尾根へ転進し、楢原山にある奈良原神社を目指す道が、かつてあったのです。
多数の山頂、小ピークが連続するアップダウンも激しい、道のりが困難であるほど、それは極楽浄土へと続く道と等しいとされました。
その道の途中にあった黒滝神社も、立ち寄るべき場所のひとつでした。
「黒瀧社まで○丁」の丁石がそれを物語っています。
農耕に関わる奈良原神社参詣で、雨乞いに秀でた黒滝神社に立ち寄り、手を合わせた人も少なくなかったでしょう。
稜線に残る、溝のようにえぐれた踏み跡は、それだけ、同じ場所を人が通っていた、往来があったことを物語っています。

ちなみに、東三方ヶ森稜線の西側、明神ヶ森方面も同様で、かつては道がありました。
明神ヶ森山頂にはその昔、雨滝龍神社という名の社殿が建っていました。
文明4年(1472)に移転され、現在は県道沿いの方にあります。
さらに西、福見山には福見寺が現存していますが、あの辺りも山岳信仰の舞台で、修験の道は繋がっていましたした。
また、明神ヶ森から南に下れる登山道を行くと、奥黒滝、前黒滝という、いまは廃村となっている集落跡があります。
そこにあるお社は黒滝神社と云います。
建物はきちんと現存していてお参りできます。
こちらも雨乞いに御利益があるそうで、「黒滝」というキーワードになにかしらの因縁を感じます。

西山興隆寺 ←→ 黒滝神社 ←→ 東三方ヶ森 ←→ 楢原山 ←→ 奈良原神社 ←→ 明神ヶ森 ←→ 福見寺。
これらを結ぶ大山岳ルートも、石鎚山系縦走路や、皿ヶ嶺連峰縦走路と並ぶトレイルコースとして見てみても面白いかと思ったりします。
(崩落し続けている南三方ヶ森(白潰)部分がちょっとネックですが。)

さて、木久ヶ森。
そこは菊ヶ森城と呼ばれた城の跡、中世城址です。
高さこそが最大の防御だった時代の山城で、土塁や石垣、丸太を立て連ねて守りを固めていた砦の類いがありました。
豊臣政権以降に好んで建てられた、武威を誇るための装置、天守閣は存在しません。
秀吉の四国征伐以前に、城は四国統一を目論み、果たした土佐・長宗我部氏によって落とされています。
城主は記録に残っているだけで4代。
落城は4代目の山内若狭太郎秀俊のとき、天正13年(1585)だったそうです。
城跡には6つの郭と堀切を見ることができます。
どちらも明らかに人が手を加えた地形なので、よく分かります。
分かりますが、五百数十年も経っているのに、未だに分かるというところが不思議だし、当時の土木力、侮りが足し、です。
なぜか木久ヶ森山頂に三角点があると誤解し(ホントは黒滝山山頂)、山頂をくまなく歩き回ってしまいました。
山頂は平らな土地で、南側に連なる郭跡も併せると同じくらいの広さがあったでしょうか。

県教委が出している資料『愛媛中世城館』から、菊ヶ森城の部分を抜粋しておきます。

城館番号:12-10
城館名:菊が森城(城の代)
所在地:河之内(菊ヶ森山)
標高:751.8m
縄張規模:132m×30m
遺構:6郭、堀切
文献:庄内村誌・古城砦記・俚諺集・二名集・温故録他
備考:大沢筑後守重清

さて、下山時の状況について。
黒滝山に向かって登り返すのですが、普段の運動不足がたたり、足に来ました (^^;)
黒滝山からはもう下りなので、体力的には楽なはずでしたけど。
道がはっきりしていない部分のほとんどは急坂、ずるずると滑るため、気を遣い、余計に踏ん張る分、体力を使いました。
黒滝神社までは無事、下山できました。
けれど、境内からまっすぐ延びる突き出し尾根から右へ曲がり下るところを上手に降りられませんでした。
西の谷側へ大きく膨らむ失敗をしてしまいました。
以降は、慎重に慎重を重ねて下山。
ウラジロガシにも別れの挨拶をして、登山口に無事、たどり着けました。

下山後、ちゃんとお墓参りもできました。
でも、その後、今治まで行って温泉に入って帰ったから、明るいうちには帰宅できませんでした (^_^)

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