丹原町鞍瀬にある大熊山は、大熊城趾を頂いた、桜三里の東の要衝、道前平野の西の口にそびえるお山です。
南に連なる石鎚連峰と、高縄山を中心とする高縄半島の山群とを連絡する山並みに属しています。
道後平野と道前平野を結ぶ桜三里の東の出口に位置しています。
南麓を中山川、西麓には中山川の支流・唐子川が流れ、隣接する山並みから切り離された独立峰のような格好です。
中山川に沿って国道11号線が南麓を通っています。
往事の讃岐街道は大熊山の西麓の唐子川に沿って北上し、北麓の笹ヶ峠を越えて道前平野へと出ました。
笹ヶ峠越えの部分は現在、県道327号湯谷口川内線となっています。
また、現在の大動脈・松山自動車道の鞍瀬トンネルが大熊山山頂下を一直線に貫いています。
道前平野の西の端で讃岐街道・桜三里の出入りを見張る関所のような場所に位置します。
古くから要衝の地で、軍事的にも重要な場所でした。
山頂には大熊城が築かれ、東に向かってにらみをきかせた要害の城でした。
西のピークに上中下3段、東のピークには1段の砦が設けられたようです。
記録はあまり残っていません。
城主として、平氏の目代、河野佐衛門尉通篤、佐伯河内守惟元、神野孫太郎らの名が文献に見られます。
最初の戦の記録は、平氏滅亡の源平合戦前後。
治承4年(1180)に河野通清に攻め落とされ、元暦元年(または寿永3年、1184)には平氏の残党狩りの舞台になりました。
鎌倉幕府滅亡後に起きた建武2年(1335)の中先代の乱にも巻き込まれました。
河野通篤が城主だった文明11年(1479)には、軍勢を率いて伊予に侵攻した阿波守護の細川義春と激闘、苦戦するも撃退しました。
天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国侵攻の余波で廃城となったなら、約400年に渡る歴史を持つ城砦だったことになります。
現在、山頂の二つのピークには送電鉄塔が載っています。
送電鉄塔の巡視路が登山道として利用できます。
西のピークが最高峰ですが、三角点は道前平野をより見晴らせる東のピークに設置されています。
※東温市にある同名の「大熊山」は「大熊山へ行こう!」へ。
|