へ行こう!
風呂ヶ谷~西第10郭~本郭(山頂) | |||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭ | |||||||||||||||||||
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①風呂ヶ谷から西第10郭を経由し、本城のある山頂を目指します。
「国指定史跡 河後森城跡案内マップ」
脇に善人杖が置いてあります。
「えひめ森林浴八十八ヶ所 14番」の柱の前を通って、
風呂ヶ谷へ入って行きます。
あ、夏、半袖半ズボンなどで入山する場合は、
前もって虫除けを塗っておきましょう。
②風呂ヶ谷は右(東)の新城と左(西)の西郭に挟まれた、
狭い隘路のようになっています。
③馬蹄形=U字状に湾曲した山並みにぐるり囲まれている、
風呂ヶ谷の最深部へ。
その昔、馬洗池と呼ばれる池があったそうですが、
いまはちょっとした草原になっています。
この風呂ヶ谷に攻め入った敵は、
四方八方から降り注ぐ矢の雨を受けたんだろうなぁ… (>_<)
「生活安全保全林整備事業(松野町松丸)」
新城の自生ツツジの道 |
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ここは、国指定史跡「河後森城跡」の新城と呼んでいる地区です。 |
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手描きな道標。
「← 西第十曲輪 新城 →」
右に急登すれば新城に近道ですが、
上部で通行禁止になってました。
ここから西郭、古城、新城の、
3方向に登って行ける道が付いています。
西郭から見ていく予定にしていたので、
一番左の踏み跡をたどり、林の中へ。
「本郭」が山頂ですが、取りあえず、
左右どちらでも本郭に行けます。
林の中へ入ると-
④苔むした階段があり-
少し登ったところでまた分岐。
「←西第十曲輪 井戸跡→」
気になって右にそれると、すぐ-
⑤山の陰に井戸はありました。
と云っても、小さな水たまりのようでした。
昔はもっと深かったのかな。
④分岐に戻り-
階段を登って行きます。
⑥木漏れ日が涼しい登山道。
右に曲がり-
ゆるゆる登った先で左に曲がり返し、
またゆるゆる登り進むと-
⑦西第10郭の入口「虎口」に着きます。
要所に解説版が埋め込んであります。
城の虎口と門 |
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この登り道一帯は、実際、城の機能していた時期に使川されていた曲輪への出入り口である虎口が検出された地点です。 |
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再現された棟門を抜けると-
そこは「西第10郭」と呼ばれる尾根の上、
南に向かって視界がわっと広がります。
左側に再現された掘立柱の建物があり、
山頂・本郭は右に尾根をたどった先にあります。
写真中央右よりの青く霞んだ山並みが鬼ヶ城山系で、
大きなシルエットが郭公岳、
その左の一番低い場所に三本杭がチラ見しています。
⑧芝生の公園並みにきれいに整備された「西第10郭」。
保存整備の対象 |
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発掘調査で確認した様々な施設は、すべてが同じ時期に使われていたのではなく、大きく分けると2つの段階があることがわかりました。 |
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「西第十曲輪の検出遺構」
西第十曲輪の位置と発掘調査の成果 |
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西第十曲輪は、城の中心部にあたる本郭から階段状に連続する10番目の曲輪(平坦地)で、西の端の最も低い地点に位置しています。 |
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郭を縁取るように土塁が再現されています。
外側はかなりの急角度。
土塁の機能と整備方法 |
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山を登ってくる敵の攻撃から河後森城を守るため、西第十曲輪のまわりには |
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城の防御方法 ~土塁と多門櫓~ |
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曲輪の端では、土塁という防御のための土盛りが行われていました。 |
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城の防御方法 ~堀切状遺構~ |
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ここは本来、土塁が続いていましたが、整備の様子を示すため、一部断ち割っています。 |
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再現されてる掘立柱の建物。
この場所には2棟の小屋が建っていたようです。
左側は馬小屋、厩舎
城の暮らし ~建物について~ |
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曲輪の中央部では、2棟の建物跡を検出しました。 |
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⑦では、山頂(本城・本郭)へ向かいましょう。
段々になった郭地形がよく復元・保護・整備されています。
草原はまるでミニ・ゴルフ場のコースみたいにきれいです。
木の階段が整備されています。
段の数で高低差が分かると思います。
高低差も敵の足を鈍らせる大切な装置です。
⑨この先は「切岸」と呼ばれる崖のようになった高低差があり、直進は無理。
山頂へは向かって右側にある小径を登って行きます。
また、左側にも迂回路のような小径があり、
西出曲輪に行くことができます。
「← 西出曲輪 本郭 →」
郭脇の小径。
やっぱり、木陰は涼しい (^_^)
⑩道の左側が郭なんですが、
段々になってるのがよく分かります。
西第5郭の入り口から振り返って。
もうひとつ上段の第4郭から振り返って。
打ち下ろしの林間コース(ゴルフ)って感じでしょ。
本郭までこんなにたくさんの段差(郭)がある(遺構が残っている)城跡は珍しいです。
予土国境に位置する河後森城は何度も戦火に見舞われています。
その度、崖をよじ登ろうとする敵を上の段からヤリでつんつん、ぐさぐさ、
次から次に払い薙ぎ落としていたことでしょう。
平和な時代に生まれて、ホント、良かった…。
郭横の小径をさらに登ると-
⑪郭と郭の境に、
地面が真っ二つになったような「堀切」がありました。
実際はもっと深く、幅もあったようです。
曲輪を分断する堀切 |
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西第二曲輪と西第三曲輪の間では、発掘調査で堀切を確認しました。 |
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小径が一段と狭くなって-
⑫再び尾根の上へ、
ここは本郭目前の第2郭で広々としています。
郭に出て右を向いたら本郭がすぐそこに。
その直前にはまた段差がありますが-
⑬垂直部分には石垣が顔を見せ、
上下の郭をつなぐ通路のような部分がありました。
どうやらここにも門や虎口があったようです。
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この地点では、河後森城の本郭への出入口である虎口が検出されていますが、領主の交代等によって改修を受けているため、大きく二つの時期の施設が認められます。 |
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本郭手前右に下る道がありました。
古城や新城へ行ける道のようです。
降り口に-
「門跡」と書かれたパネルが設置してありました。
ここにも門があったようです。
⑭虎口を登り、本郭へ上陸、城の山山頂に到着しました!
「主殿舎」と呼ばれる城主のための建物跡。
「主座敷(畳敷)」
本郭で検出した施設 |
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河後森城跡の本郭は、城内で最も高い場所にあります。 |
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山頂からの眺めです。
南の鬼ヶ城山系と北の戸祗御前山系の間を大きく蛇行する広見川。
川を縁取るような田園の緑がとても鮮やかです。
松丸の町をアップで。
対岸の大きな建物が、さっき訪ねた道の駅、
こっち岸のはJR松丸駅・ぽっぽ温泉。
西へ目を転じて、松野西小学校。
その背後にある小山にも郭が確認されています。
振り返って、鬼ヶ城山系を。
大きな山容のお山が郭公岳、その左下に古鬼ヶ城、三本杭、
御祝山と横の森は手前の木に隠れ気味、
飯盛山の山頂部分もかぶっちゃった (^^;)
北端部分に-
基準点がありました。
東側に移動。
高知・西土佐方面へ繋がっていく山並みと、
眼下にさっき訪れた西第10郭が見えました。
ここから見ると、土佐からの敵が真っ先に襲ってきてそうな場所ですね。
西第10郭の奥にある森は、
この後訪ねる「新城」のあるピーク。
掘立柱建物をアップで。
ひとりごと | ||
風呂ヶ谷の駐車場には、おサボり中の営業車が2台、木陰で涼んでました (^^;) 虫除けを塗り塗りして、いざ、遊歩道へ。 普通、谷地形は次第に曖昧になって斜面に吸収されてしまうか、狭いまま、崖のような地形にぶつかって突然途絶えます。 中世、現在の松野町、日吉村、広見町を含む一帯は「黒土郷河原淵領」と呼称されていました。 『渡辺家新城氏源姓出来書』には、建久7年(1196年)、渡辺七兵部小輔源連が河後森城に居住したとあります。 戦国時代最後の河後森城城主は芝源三郎で、教忠の近習だった人物です。 城主となった芝源三郎は長宗我部氏に内通し、侵攻を手助けします。 僕が訪ねたのは夏草暴れる季節でしたが、郭の中はまるで芝生の公園のように歩きやすく、居心地の良さが保たれていました。 |
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