松野町の城の山
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風呂ヶ谷~西第10郭~本郭(山頂)
距離 約450m
標高差 約40m
一般道
徒歩
下記写真の場所
距離 約300m
標高差 約20m
  

風呂ヶ谷から西第10郭を経由し、本城のある山頂を目指します。

  

「国指定史跡 河後森城跡案内マップ」
脇に善人杖が置いてあります。

「えひめ森林浴八十八ヶ所 14番」の柱の前を通って、
風呂ヶ谷へ入って行きます。
あ、夏、半袖半ズボンなどで入山する場合は、
前もって虫除けを塗っておきましょう。



風呂ヶ谷は右(東)の新城と左(西)の西郭に挟まれた、
狭い隘路のようになっています。



  

馬蹄形=U字状に湾曲した山並みにぐるり囲まれている、
風呂ヶ谷の最深部へ。
その昔、馬洗池と呼ばれる池があったそうですが、
いまはちょっとした草原になっています。
この風呂ヶ谷に攻め入った敵は、
四方八方から降り注ぐ矢の雨を受けたんだろうなぁ… (>_<)

  

「生活安全保全林整備事業(松野町松丸)」

  

新城の自生ツツジの道

 ここは、国指定史跡「河後森城跡」の新城と呼んでいる地区です。
山上付近には、曲輪という建物などがあった平坦地や、堀切や土塁という人工的に岩盤を掘ったり、土を盛ったりした防御のための施設が残っています。
 この地区には以前から自生するツツジの群落があり、毎年4月の中旬から下旬にかけて道沿いに淡いピンクの花の回廊を形成しています。
地元の民間団体である森の国山城の会では、史跡の保護や活用を目的として、毎年、この自生ツツジの群落を城内に広げていくため、苗を移植する活動を行っています。

手描きな道標。
「← 西第十曲輪 新城 →」

右に急登すれば新城に近道ですが、
上部で通行禁止になってました。

  

ここから西郭、古城、新城の、
3方向に登って行ける道が付いています。
西郭から見ていく予定にしていたので、
一番左の踏み跡をたどり、林の中へ。

「本郭」が山頂ですが、取りあえず、
左右どちらでも本郭に行けます。

林の中へ入ると-



苔むした階段があり-

  

少し登ったところでまた分岐。
「←西第十曲輪 井戸跡→」
気になって右にそれると、すぐ-



山の陰に井戸はありました。

と云っても、小さな水たまりのようでした。
昔はもっと深かったのかな。


分岐に戻り-

階段を登って行きます。



木漏れ日が涼しい登山道。
右に曲がり-

ゆるゆる登った先で左に曲がり返し、
またゆるゆる登り進むと-



  

西第10郭の入口「虎口」に着きます。

要所に解説版が埋め込んであります。

  

城の虎口と門

 この登り道一帯は、実際、城の機能していた時期に使川されていた曲輪への出入り口である虎口が検出された地点です。
当時はかなりの急傾斜になっており、道幅が約2m、東側には雨水を流すための溝が設けてありまた。
そして虎口を登りきったところには、ほぼ同じ大きさの2つの柱穴(はしらあな)が発見され、門の柱を立てた跡と考えられます。
 この門は棟門(むなもん)と呼ばれる構造で、2本の柱の上に冠木(かぶき)という部材をのせた鳥居のような形の骨組みをし、これに板葺きの屋根と内開きの扉が付いていたと考えられます。
ここではその様子を立体的に再現しています。
 現在、門の両側には植栽を行っていますが、敵の侵入に備えるため土塁(土盛り)や矢来(やらい)(木を使った囲い)などの防御施設が続いていたと考えられます。
 なお、後の時期には東側に控柱(ひかえばしら)をもった土塀が造られていますが、その時の門の構造はよく分かっていません。

再現された棟門を抜けると-

そこは「西第10郭」と呼ばれる尾根の上、
南に向かって視界がわっと広がります。
左側に再現された掘立柱の建物があり、
山頂・本郭は右に尾根をたどった先にあります。
写真中央右よりの青く霞んだ山並みが鬼ヶ城山系で、
大きなシルエットが郭公岳、
その左の一番低い場所に三本杭がチラ見しています。



芝生の公園並みにきれいに整備された「西第10郭」。

  

保存整備の対象

 発掘調査で確認した様々な施設は、すべてが同じ時期に使われていたのではなく、大きく分けると2つの段階があることがわかりました。
ひとつは16世紀後半の古い段階(1550~1600年頃)で、土塁、堀切状の遺構、掘立柱建物、門を備えた出入口が機能しています。
もうひとつの時期は、16世紀終末から17世紀初頭の新しい段階(1600年前後)で、多聞櫓(たもんやぐら)と出入口付近に土塀を確認しています。
 このうち、西第十曲輪の保存整備は、16世紀後半の古い段階を対象としています。
これらの施設は、全国各地で見ることができる江戸時代の城、例えば松山城や宇和島城などよりも一段階古い時代の特徴を示しています。
 それぞれの施設に認められる、当時の様々な知恵と工夫をこの場所でぜひ体験してみてください。

  

「西第十曲輪の検出遺構」

  

西第十曲輪の位置と発掘調査の成果

 西第十曲輪は、城の中心部にあたる本郭から階段状に連続する10番目の曲輪(平坦地)で、西の端の最も低い地点に位置しています。
そのため、敵の進入を受けやすく、城を守る上で重要な役割を担っていました。
 保存整備に伴う発掘調査では、このことを示す様々な施設を発見しています。
特に、曲輪の内部では建物や塀、門などの構築に使用された約700基もの柱穴の跡が見つかっています。
また、城を守るために必要となる土塁や堀切状の施設、曲輪への出入口なども確認しています。

郭を縁取るように土塁が再現されています。

外側はかなりの急角度。

  

土塁の機能と整備方法

 山を登ってくる敵の攻撃から河後森城を守るため、西第十曲輪のまわりには切岸(きりぎし)と呼ぶ人工的な崖をめぐらせ、さらにその上には土盛りの防御施設である土塁が築かれていました。
 土塁を築くと、高さが増して敵が簡単に登ってこられなくなるのと同時に、城を守る兵にとっては土塁上から攻撃を仕掛けたり、曲輪側に身を隠すこともできます。
 この地点の土塁の整備は、完全な復元ではなく可能な範囲で行っています。曲輪側の立ち上がりについては、当時のラインを示していますが、高さと幅は本来のものではありません。実際は、南部や東部で完全に復元しているような土塁が続いていたと推定しています。

  

城の防御方法 ~土塁と多門櫓~

 曲輪の端では、土塁という防御のための土盛りが行われていました。
特に南部の隅では、この盛り土の跡が明瞭に残っており、その範囲は東西へと延びていました。
発掘で判明した盛り土の幅(約2.2m)を参考にすると、土塁の高さは約90cmであったと推定でき、ここではその様子を立体的に再現しています。
 また、この土塁は、単純に平たいところへ土が盛られていたわけではありませんでした。
曲輪の内を広くするため、斜面から外にも築かれていました。
岩盤を階段状に削って足がかりをつくり、その上に質の異なる土をたたきしめながら交互に積み上げていたことが判明しています。
 また、発掘調査では、同じく曲輪の端で大型の柱穴の列が認められ、土塁を取り払った後に、長屋状の多聞櫓と土塀を組み合わせた防御施設が造られたことが分かりました。
土塀の後ろには離れて控柱(ひかえばしら)が立っており、籠城の時には、間に板を渡して武者走りとして使う工夫がされています。
16世紀の終わりから17世紀の初め頃(1600年前後)、古い土塁から新しい多聞櫓へと曲輪の端の防御方法が変化したのです。

  

城の防御方法 ~堀切状遺構~

 ここは本来、土塁が続いていましたが、整備の様子を示すため、一部断ち割っています。
この地点から南へ約5m下がったところでは、2本の堀切状遺構が見つかっています。
堀切とは、山の尾根筋を登ってくる敵の侵入を防ぐため、岩盤を掘り抜いて造った人工的な溝のことを指します。
 植栽を行い、範囲を表示している外側の遺構は、古い時期に設けられたもので、幅が約2.4m、深さが約60cmありました。
 一方、内側の遺構は立体的な表現を行っていますが、発掘調査の結果、外側の古い段階の堀切を埋めたあとに掘り込んであることが判明しています。
出土品から16世紀(1500年代)に築かれた新しい時期の堀切と考えられます。
「コ」の宇形をしていますが、中央は浅く、両側に行くにつれてだんだんと深くなっています。
これには、敵が尾根を登ってくる際に、左右へ回り込むのを防ぐ竪堀【たてぼり】と呼ばれる機能が加わっていると考えられます。
なお、この地点のさらに下方の斜面や西側に並ぶ尾根にも多数の堀切や竪堀が連続して設けられていることが分かっています。
 また、ここでは1棟の掘立柱の建物を検出しています。
柱のあった位置を表示していますが、一部は新しい堀切状遺構が造られるときに消滅していますので、それより前に使われていた建物と想定しています。
敵の動きを見張る兵士が居住していた番小屋のような施設と考えられます。

再現されてる掘立柱の建物。
この場所には2棟の小屋が建っていたようです。
左側は馬小屋、厩舎

  

城の暮らし ~建物について~

 曲輪の中央部では、2棟の建物跡を検出しました。
これらは、岩盤に円形の穴を堀り、じかに柱を埋ぷ込んで立てる掘立柱の建物です。
 絵巻物等を参考に復元表示を行った左側の建物は、西側を板敷とし、東側に土間を、北側に(ひさし)を設けていました。
建物には角柱が使川され、壁は土壁で、その下地を利用して作った下地窓が付き、屋根は「こけら」とよぶ薄い板を葺いた構造であったと考えられます。
また、柱の列が正確に並んでいることから番匠と呼ばれる建築の専門工人が造った建物と考えられます。
 一方、右側の建物は、柱のあった位置や間取りを平面的に表示しています。
間仕切りのある南側は土間で、北側は竹を並べて(むしろ)を敷いた部屋であったと思われます。
左側の建物と比べて、柱の穴の列がかなりゆがんでおり、こちらは素人づくりの建物のようです。
 この2棟は、あまりに接近しており、屋根が当たってしまうので、同時には存在できません。
これは当時の建物が掘立柱の腐りやすい構造のため短期間のうちに建てかえが行われたことを示しています。

では、山頂(本城・本郭)へ向かいましょう。
段々になった郭地形がよく復元・保護・整備されています。
草原はまるでミニ・ゴルフ場のコースみたいにきれいです。

木の階段が整備されています。
段の数で高低差が分かると思います。
高低差も敵の足を鈍らせる大切な装置です。



  

この先は「切岸」と呼ばれる崖のようになった高低差があり、直進は無理。
山頂へは向かって右側にある小径を登って行きます。
また、左側にも迂回路のような小径があり、
西出曲輪に行くことができます。

「← 西出曲輪 本郭 →」 

郭脇の小径。
やっぱり、木陰は涼しい (^_^)



道の左側が郭なんですが、
段々になってるのがよく分かります。

西第5郭の入り口から振り返って。

もうひとつ上段の第4郭から振り返って。
打ち下ろしの林間コース(ゴルフ)って感じでしょ。
本郭までこんなにたくさんの段差(郭)がある(遺構が残っている)城跡は珍しいです。
予土国境に位置する河後森城は何度も戦火に見舞われています。
その度、崖をよじ登ろうとする敵を上の段からヤリでつんつん、ぐさぐさ、
次から次に払い薙ぎ落としていたことでしょう。
平和な時代に生まれて、ホント、良かった…。

郭横の小径をさらに登ると-



郭と郭の境に、
地面が真っ二つになったような「堀切」がありました。
実際はもっと深く、幅もあったようです。

  

曲輪を分断する堀切

 西第二曲輪と西第三曲輪の間では、発掘調査で堀切を確認しました。
堀切とは山の岩盤を溝のように掘りぬいた施設のことで、当地点のものは両方の曲輪の間を分断する長さ約17m、幅約1.3mから2.2m、深さ約1.3mから1.8mの大規模な構造となっています。
 堀の底が平らになっていること、また反対側の西の端では、岩盤を削ってつくった道が存在していたことなどから、この堀切が通路として使用されていた可能性があります。
なお、堀切を保護するために、整備では盛土(もりつち)による保存工事を行っており、本来の幅と深さは現地では表現されていません。

小径が一段と狭くなって-



再び尾根の上へ、
ここは本郭目前の第2郭で広々としています。

郭に出て右を向いたら本郭がすぐそこに。
その直前にはまた段差がありますが-



  

垂直部分には石垣が顔を見せ、
上下の郭をつなぐ通路のような部分がありました。
どうやらここにも門や虎口があったようです。

  

本郭(ほんかく)へ続く虎口の様子

 この地点では、河後森城の本郭への出入口である虎口が検出されていますが、領主の交代等によって改修を受けているため、大きく二つの時期の施設が認められます。
 古い段階は、15世紀(1400年代)から16世紀頃(1500年代)で、本郭との間に人工的に掘りくぼめた堀切がありました。
堀切の東の端には、岩盤を掘りぬいて直接柱を埋め込む掘立柱の門があり、この門へと、そして門から本郭に向かって岩盤を削り出した道が形成されていました。
 一方、新しい段階は16世紀末から17世紀初め頃(1600年前後)で、古い段階の堀切を壊して石垣を構築しています。
また、石垣の東側にある岩盤を削り出した道上の一部と石垣の西側には、盛土や石段による新たな道が設けられました。
 このように、当地点では岩盤を掘ったり削ったりする古い段階から、石垣を備えた新しい段階へと、城づくりが変化した様子を知ることができます。

本郭手前右に下る道がありました。

古城や新城へ行ける道のようです。
降り口に-

「門跡」と書かれたパネルが設置してありました。
ここにも門があったようです。



  

虎口を登り、本郭へ上陸、城の山山頂に到着しました!

  

「主殿舎」と呼ばれる城主のための建物跡。

「主座敷(畳敷)」

  

本郭で検出した施設

 河後森城跡の本郭は、城内で最も高い場所にあります。
標高は約171mで、ふもとにある集落との比高差は約88mです。
 これまでに行った発掘調査では、ほかの曲輪(防衛や居住のために造られた平坦地)と同じく、岩盤を円形に掘った多くの柱穴跡を検出しています。
これらは、柱を土の中に埋め込む掘立柱を使い、屋根には主に板を葺いた施設の痕跡を示したもので、本郭では、建物跡10棟、門跡1基、土塀跡1基を確認しました。
このうち、現地では、明らかに時期の重複する4棟を除く建物6棟、門と土塀について、柱の位置(黒石で表示)や間仕切りの様子を整備しています。
 建物の種類には城主が住む主殿舎、料理をする台所、見張り等を行う番小屋があり、出土品の年代からおよそ15世紀(1400年代)から16世紀(1500年代)にかけて使用されていました。
 なお、この本郭では、多くの瓦も出土しており、曲輪内に礎石(建物の基礎石)が残されていることから、総瓦葺きの建物もあったと考えられます。
この建物は、西側の虎口や南側斜面に残る石垣とあわせて河後森城の最終段階にあたる16世紀末から17世紀初め頃(1600年前後)に存在した天守ではないかと推定しています。

  

山頂からの眺めです。
南の鬼ヶ城山系と北の戸祗御前山系の間を大きく蛇行する広見川。
川を縁取るような田園の緑がとても鮮やかです。

  

松丸の町をアップで。
対岸の大きな建物が、さっき訪ねた道の駅、
こっち岸のはJR松丸駅・ぽっぽ温泉。

西へ目を転じて、松野西小学校。
その背後にある小山にも郭が確認されています。

  

振り返って、鬼ヶ城山系を。
大きな山容のお山が郭公岳、その左下に古鬼ヶ城、三本杭、
御祝山と横の森は手前の木に隠れ気味、
飯盛山の山頂部分もかぶっちゃった (^^;)

北端部分に-

基準点がありました。

東側に移動。
高知・西土佐方面へ繋がっていく山並みと、
眼下にさっき訪れた西第10郭が見えました。
ここから見ると、土佐からの敵が真っ先に襲ってきてそうな場所ですね。
西第10郭の奥にある森は、
この後訪ねる「新城」のあるピーク。

掘立柱建物をアップで。

ひとりごと

風呂ヶ谷の駐車場には、おサボり中の営業車が2台、木陰で涼んでました (^^;)
それ以外は僕のスクーターのみ。
国指定の史跡と云っても、天守閣もない城跡は、訪ねる人もまばらなのでしょう。
(河後森城は“天守”が盛んに建造された中世後半以前からあったお城です)
駐車場の進入路に沿って風が抜けていくので、日陰に入ればなかなかに涼しい場所でした。

虫除けを塗り塗りして、いざ、遊歩道へ。
歩き始めの風呂ヶ谷は狭い谷です。
こんな狭い谷で左右から矢で射られたら逃げ場もなく、パニックっている間に全滅だなぁ…とか考えながら、てくてく。
お城ファンの人なら分かって貰えると思うのですが、城跡に行くと僕はつい、“攻め”てしまいます。
城を攻める側の目線で地形を検分し、雑兵気分で遺構を巡るのが楽しくて仕方がありません。
そうやって狭い風呂ヶ谷の谷底を歩くと、数こそ頼りでかき集められた名もなき雑兵の屍の山が見えてくるようです。

普通、谷地形は次第に曖昧になって斜面に吸収されてしまうか、狭いまま、崖のような地形にぶつかって突然途絶えます。
でも、風呂ヶ谷の奥は、花道の先の舞台のような不思議な空間が待っています。
アニメ「紅の豚」で、ポルコが隠れ家にしているような地形で(海辺じゃないけどね)。
尾根にぐるっと取り囲まれていて、隠れ家にするなら最適な場所です。
風呂ヶ谷は「フロン谷」のような別名もあるようです。

中世、現在の松野町、日吉村、広見町を含む一帯は「黒土郷河原淵領」と呼称されていました。
領主は渡辺氏で、この地域の宇和荘の荘官をつとめていました。
南北朝期に西園寺氏の一族が伊予国宇和荘に下向、戦国時代には宇和荘の旗頭になるまでに成長しました。
結果、東・中予の河野氏、喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏の三大豪族が割拠。
その下に、河原淵領渡辺氏のような小豪族が多数存在、覇を競い合う、まさに群雄割拠、戦国時代さながらの様相を呈していました。
さらには、地続きの土佐一条氏、長宗我部氏、海向こうの豊後大友氏が隙あらば侵略してくる有様でした。
そのような状態で、独力で領地を守るには限界があった小領主たちは大豪族と大同団結する道を選択。
渡辺氏も西園寺氏旗下の14領主(資料によっては15)のひとりとなったようです。

『渡辺家新城氏源姓出来書』には、建久7年(1196年)、渡辺七兵部小輔源連が河後森城に居住したとあります。
それが、渡辺氏に関する最も古い記録です。
戦国後期の河原淵領主だった渡辺式部少輔教忠に関する資料は比較的多く現存し、河後森城で最も知られた城主となっています。
教忠は、隣国土佐の一条氏一族の出身でした。
そのためか、一条氏が西園寺領内に攻め入った時、見て見ぬふりをしました。
そのために損害を被った近隣の領主や武将からは内通者とみられ、排斥されそうになりました。
四園寺氏諸将に河後森城を取囲まれ、これに慌てた教忠は人質を出すなどしてやっと許されました。
やがて、一条氏が滅び、変わって長宗我部氏が侵攻。
真っ先に先頭に立ってこれを防ごうとした渡辺氏でしたが、力及ばず、河後森城は焼け落ちてしまいました。

戦国時代最後の河後森城城主は芝源三郎で、教忠の近習だった人物です。
その父・四郎右衛門は、河上村の百姓でした。
川狩りをしていた教忠が、鵜縄を巧みにさばく四郎右衛門に目をつけてスカウトしました。
教忠の人物を見る目が正しかったようで、四郎右衛門は立身出世を重ね、西の川の鳥屋ヶ森城を預かるほどにまでなりました。
さらには、長男の一覚は広見村の多武森城、二男の左京進は国遠村の竹の森城の城主になるなど、子供たちも優秀でした。。
源三郎は四男で、教忠の近習となってからは特に寵愛される家臣にまで成長しました。
その源三郎が教忠に代わって河後森城城主となりました。
別説では、教忠の男色や文弱を憂いた源三郎が教忠を鰯川に誘い出し、酒宴を開いて酔いつぶします。
そのすきに城を乗っ取り、強制的に蟄居に追い込んだとか。
下克上な戦国時代、何でもありですが、実際は、子がなかった教忠が源三郎に城主の地位を譲ったようです。
教忠のお墓は、富岡の照源寺墓地にありますが、亡くなってからずっと後に建てられたもののようです。

城主となった芝源三郎は長宗我部氏に内通し、侵攻を手助けします。
攻撃を受けた三間の土居清良は、長宗我部軍を迎え撃つとともに、裏切り者・源三郎の河後森城を攻めます。
敵味方入り乱れる有様です。
源三郎は「土佐に何度も攻められて仕方なかった…」みたいな言い分けを云って降伏したそうです。
豊臣秀吉の四国侵攻では小早川隆景の軍と戦わずして降伏。
芝氏もやがて絶えてしまいました。
そして、鬼北地方最大の城であった河後森城は、秀吉の四国侵攻で城主を失いました。
その後、藤堂高虎に宇和島城築城のためと天守を持ち去されます。
徳川政権下の一国一城制度でついに城そのものの存在が廃されました。
以降、城跡はすっかり草木に埋もれ、ただの野山に戻ってしまいました。
昭和47年に愛媛新聞社から発行された『古城をゆく』という本に河後森城のページがあります。
「山頂の平地は、太平洋戦争前後の食糧不足時代、イモ畑に耕されたこともあったそうだ。
いまは、背丈を越すススキが一面にはえ茂り、城の残がいをたずねあてるすべもなかった。」
当時、取材したときの様子が書かれています。
近年まで荒れるに任せていたようです。
転機が訪れたのは、昭和63年度から平成2年度にかけて実施された松野町による町内遺跡の詳細分布調査。
城の山で部分的な発掘調査が行われ、森に埋もれていた巨大な城跡の存在が多くの人に知られるところとなりました。
翌平成3年度から平成10年度にかけて本格的な発掘調査が行われました。
河後森城の在りし日の姿が次第に明らかとなった平成9年9月11日、国史跡に指定されました。
平成8年には「森の国山城の会」(民問団体)が発足。
平成11年度には「史跡河後森城跡保存整備基本計画」が策定。
遺構の復元、平面及び立体的表示、保存工事、景観整備など様々な事業が行われました。

僕が訪ねたのは夏草暴れる季節でしたが、郭の中はまるで芝生の公園のように歩きやすく、居心地の良さが保たれていました。
草刈りなどの環境整備が定期的に行われているからだと思います。
同じ国指定の史跡でも、ほったらかしにされてる遺跡は少なくありません。
でも、あの日、空き缶とかコンビニ弁当の空き容器みたいなゴミを一つも見かけませんでした。
そういうところ、凄いと思います。
河後森城跡はみんなの宝物なんですね。

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