登山口を目指し、道の駅からリスタート。
国道に出て近永方面へ左折し、
100mほど先にある信号交差点を左折。



大門橋を渡ります。



JRの踏切を渡って突き当たりまで直進。
踏切を渡ってすぐを左折すると松丸駅前へ入れます。

踏切手前に、広見川・四万十川でもよく獲れるウナギの慰霊碑「鰻魂碑」がありました。
シラスウナギの激減で価格高騰中のウナギですが、松野の食堂のご主人曰く、
「ニュースで高くなった、高くなったって云うのでお客さんが減ってる」そうで、
「でも、ウチは値上げもしてないから食べに来て」だそうです。



  

車の人はここを右折して1kmほどで登山口。
徒歩の人は左折して残り500mほど。

「← 500m 河後森城跡
 駐車場 1120m」

僕はスクーター移動ですが、左折しました。
登山口の前に行くところがあったので。



  

昭和な雰囲気が残る通りを東へちょいっと行ったとこにある
信号交差点を左に曲がったら-



松丸駅です。
道の駅から見えた「ぽっぽ温泉」もこちらで、
温泉の入り口は左側にあります。
2階には無料の足湯もありますぜ、下山後にいかが? (^_^)

入浴料は、大人520円、子人320円です。
男湯・女湯は、「明治の湯」と「滑床の湯」が週替わり。
泉質は、低張性弱アルカリ性冷鉱泉。


次は、信号んとこに戻り、さらに東へ。



駅前から250m位のところにある松野町の役場。
その同じ敷地内、東っ側の駐車場横にある-

「町民センター」に用があったのでした。
表に松野町出身の俳人・芝不器男(しばふきお)の歌碑があります。

松野町出身の歌人・政石蒙の蔵書が寄贈された政石蒙文庫もある、
1階のフロアにあるのが-

河後森城跡(城の山)の立体地形模型です!
かなり緻密にできてます。

それもふたつあって、窓際のは6畳ほどもある立派なものです。
周囲にいらない椅子が積んであったり、ホコリをかぶってたり、
お荷物感がちょっとにじみ出てたりはするんですが… (^^;)
馬蹄形な尾根に縄張りされた城跡の様を神様目線で一望できます。

松野町には「目黒山形関係資料」という、
江戸時代に製作された立体地形模型がありますが、
山形模型の影響を受けて作成されたんでしょうね。
これも分割して運べるのかな?

尾根に載ってただろう櫓や砦の模型たち。
模型の片隅に集められてました。
また飾り直される日は来るのかな?

表に出ると、向かいの郵便局の後ろに、
城の山の尾根が見えてますが-

ゴルフコースのような緑色の平地が見えてます。
あそこも城跡かな? 後で確かめてみようっと。

と云うわけで、寄り道終了、お山を目指します。
風呂ヶ谷と云う場所にある登山口を目指します。
この位置からだと、お山の裏側になります。
来た道を戻り-


道標のある丁字路から-

さらに西へ進んで-



すぐの丁字路を左折して-

一段上を通っている旧松丸街道へ向かいました。
ちなみにこの通り、旧土佐街道でした。

徒歩で行く場合、駅前からまっすぐ上がるのが正しい、一番の近道なんですが、
肝心の交差点に道標がなくて…。
また、車やバイクで向かう場合は、もっと西へ走り、
鰯川の橋を渡ったとこを左折するのが正解です。
正直、暑さでぼんやりしてて、行き当たりばったりになっちゃいました (^^;)



旧街道に着いたら左へ曲がりました。

角には道標。

土佐・高知との国境に位置して大いに栄えた時代の
宿場や造り酒屋、豪商の商店が旧街道沿いに残ってます。



  

この丁字路を右に曲がります。

今度の道標は見落とさなかったぞ。



坂道を登り初めてすぐ、
階段がありました。

永昌寺に至る階段で、お寺の境内からも城跡へ登る道が付いています。
でも、今回は風呂ヶ谷から登りたかったのでパスし、
坂道をさらに上りました。



  

すると、ひとつ上の車道にぶつかる感じで道が二手に分かれます。
舗装されているのは右の坂で、
上ると松野西小学校の校門があります。
左は歩道で、奥に大きな石碑が建っています。
正面の道が分かれるところには-

道標や「河後森城登山道」と彫られた石碑。
「← 河後森城登城口」の方へ左折すると-

  

歩道は二手に分かれますが、右は車道に上がる道で、
遊歩道(登山道)は左、石碑に向かう方です。

達筆な「河後森城趾」。
とても背の高い石碑です。

河後森城趾

河後森城は伊予と土佐国境にあって、鎌倉時代から安土桃山時代にかけ軍事的にも重要な城として河原渕領を支配して栄え、城主は代々渡辺氏を称した。
戦国時代には土佐中村の一條家の甥、東小路教忠を養子に迎え城主とした。
教忠卿は宇和西園寺旗下各将のうち最大の領地を有し、九州大友氏、土佐の長宗我部氏の度重なる侵略に対して永禄から天正のはじめにかけて活躍した名君であった。
この度の発掘にあたって教忠卿の遺業を偲び、雄大な城の姿を広見川に映して人々の支えとなっていた河後森城が中世の名城として今後の輝きを増して行くことを祈って止まない。

松野町町長 古川林三郎 撰文
渡辺式部小輔教忠後裔 宇和島市八幡神社宮司 渡辺正 建立

石碑のところに道標がないので、
右の道を登り、車道へ出てしまう人が多いようですが、
遊歩道は石碑の後ろに続いていて、
の永昌寺からの道と合流して本城(山頂)まで登れます。

ちなみに、町作成の「河後森城跡ウォークマップ」では、
車道に出て風呂ヶ谷まで歩き、
石碑の裏の道は帰りに下ってくる感じで案内されています。



二股の舗装した方を上ると松野西小学校の校門のところに出ます。
グラウンド沿いに進んでいけば風呂ヶ谷まで行けます。

…が、ここまで来て正直、ちょっと道に迷った感じになってしまい、
予定していたルートともズレ始めていたので、
迷った時はフリダシに戻る、で、一端、旧街道まで戻りました。

と云うわけで、旧街道まで戻り、
今度は逆に、旧街道を西へ進みました。



  

鰯川手前の角を左折します。

角には芝不器男の歌碑。

上ってった先の三叉路は-



  

左へ。

「河後森城跡駐車場」の方へ。



「森の国ドーム」という体育館を右に見ながら坂を上ると-



松野西小学校の、さっきと反対側の校門があって、
さらに上ると、のグラウンド沿いの道と合流、長谷池の横を通り-



  

「古城園」「フレンドまつの」って施設がある土手の下の三叉路に出会います。

「← 河後森城跡」

「← P 河後森城 風呂ヶ谷登城口」

  

案内に従って三叉路を左折します。

歩道も整備された山道をゆるゆる下っていくと-



  

また三叉路。
登山口(登城口)は左です。

この辺りは、松丸駅から見ると、お山の真裏です。

「← 河後森城 トイレ(やまぶき庵)→」
「← 河後森城 風呂ヶ谷駐車場」

またゆるゆると下って行くと-



  

やっとこさ、風呂ヶ谷登山口(登城口)に到着。
写真の方向が風呂ヶ谷の入り口、登山道です。

谷は南東方面に抜けています。
南側の影になっている部分に別の登山道があり、登っていくと山の上に展望広場があるようです。

ひとりごと

道の駅から登山口目指し、スクーター発進。
徒歩でもいい距離でしたが、暑すぎました (^^;)

大門橋を渡ると「鰻魂碑」がありました。
清流四万十川にそそぐ広見川でも天然の鰻が獲れます。
松野のウナギはそれなりにメジャーなグルメなので、このような碑が建てられたのでしょう。
仕事で来た折、役場から東に行った角にある食堂で昼食しました。
上記の「ウナギを食べに来て」エピソードはそのときに聞いた話でした。
「ニュースとかで、ウナギが獲れなくなって高くなってるって話をあんまりするものだから、
高いと思ってお客さんが来なくなったのよ、ウチは値上げしてないから、今度、食べに来て」
そんな話をされてました。
予約しないと食べられない松野のうな重は4000円から!
4000円あったら、のり弁何回食べられるんよって計算してしまう、庶民以下の僕。
値上げ話以前の問題、贅沢すぎる食べ物なんですけど。

松丸駅に立ち寄りましたが、駅舎の中には入りませんでした。
ぽっぽ温泉も入り口まで、足湯は帰りに寄ろうと思い、こちらもパス(でも結局、立ち寄り忘れてしまいました)。
駅舎には河後森城のガイドマップが置いてあったらしい。
入手できてたら、この後、登山口を探して右往左往することもなかったと思われ…。

その後、役場の町民センターに寄り道しました。
そこで見たあの立体地形模型も、仕事で来た時に見つけたものです。
模型はふたつあって、ガラスケースに入った方は緻密にできてて、ホールを占有している方はスケール感たっぷり。
城跡の立体模型がふたつもあるのは、目黒地区にある目黒ふるさと館に展示してある「目黒村山型模型」の影響が大なんだと思います。
目黒村山型模型もホントは見て帰りたかったんですが、時間の都合で行けず、残念。
町民センターは自由に見学できるので、興味がある人は見学してみてください。

さて、いよいよお山へ。
駅前の交差点を上ればいいものを、スルーし、適当な道路を上がって旧松丸街道へ。
旧街道には造り酒屋などの古い建物が残っていて、とってもいい雰囲気です。
松丸は予土国境という場所に位置し、酒や油を広く商って富栄えた豪商もいたそうです。
昭和の初めに大火があり、街道として栄えた時代の建物の多くは消失してしまいました。
その後、再建された商店などが現存しています。
でも、また時間がないのと暑すぎたのとで、足早にスルー。

道標に従い、上がった坂で巨大な城跡石碑を見つけました。
ものすごく立派な石碑です。
でも、そこから道標がなくなり、どう進んでいいのか、分からなくなりました。
正確には道標はちゃんとあるんですが、初めて来た人の身になって立ててない道標は迷う元です。
ネットで河後森城を訪ねた人のブログなどを読んでみると、予定とは違う登城口から登った人が少なくありません。
道標がないわけじゃないのに、みなさん、結構、迷われてます。
“観光力”が低いのは、四国全体の悪い癖ではあります。
遠く離れたところにたくさんの案内看板を立てて必死に誘導するんだけど、目的地近くなると看板がぱたっと無くなる。
残り数百mで迷ってしまうパターンがよくあります。
地元の人の当たり前は、よそ者には当たり前じゃないです。
最後の最後まできちんと誘導して欲しいものです。
石碑下の分岐とか、右、左、どっちに(どれくらい)行ったら風呂ヶ谷なのか、きちんと書いてくれないとホント、困ります。

と云うわけで、一端、旧街道に戻り、ドームの方からぐるっと上り直しました。
どちらかと云えば、こっちの方が最初に予定してた(スクーターや車で行ける)ルートなんですけどね。

そんなこんなで、また時間をロスしてしまい、やっとこさ、風呂ヶ谷に着きました。

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