石鎚山へ行こう!
表参道から
お山について登ってみよう!メールホームへ土小屋から、夏土小屋から、霧氷面河から
二の鎖元~三の鎖元~弥山山頂
距離 約600m
標高差 約180m
徒歩
下記写真の場所

ではいよいよ、山頂目指し、最後のひと登り。
鳥居をくぐり、さらなる神域へと足を踏み入れます。

小型重機も働く、雑然とした工事区間を抜けると-



  

二の鎖の取り付きがあります。
またまたまた、パスしましたが、その入口に-

天狗様の石像がありました。
前はなかった気がしたけど、
工事してて見つかったのかなぁ、合掌。

「←石鎚山頂(二の鎖経由)
 成就 3.1km→
 土小屋 4.1km→
 石鎚山頂 0.5km→」



迂回路を登っていたら、道ばたに残雪がありました!

雪! 雪! 雪!
飛びつくように駆け寄って-

表面のゴミをかき分け、真っ白い所をがぶりっ!
下山時は雪で顔を洗い、復活!



ここからの迂回路は鉄製の階段など、
丈夫な素材と、手すりもある安心設計。
(てすりは谷側にはないけどね)

平らな通路はこのようなメッシュになってます。
高所恐怖症な人には、このすけすけ感、
たまりません~(>_<)

すけすけ以上に、迂回路は崖っぷちを通るので、
高度感がもうたまりません (+_+)
下りは通路の谷側を通るのですが、谷側には手すりがないので、
すれ違う人がいないときは無理せず、山側を歩かせてもらいましょう。
ちなみに、このような上り下りが分けられてる通路はいいんですが、
分けられてない狭い通路ですれ違うとき、
待つ側、道を譲る人は必ず山側で待機しましょう。
身体がぶつかったりして滑落する恐れがあるからです。
譲ってもらった人も、高くて怖いからって、
山側を無理矢理すり抜けたりしないように。



急な階段。
昔は錆び錆びの鉄板と、
トラロープの手すりだけの階段で、
上り下り、譲り合いが必要でした。



谷筋に残る残雪を見ながらの登り。

雪は急角度な谷に張り付いてたので、近寄れませんでした。
雪の下から雪解け水が威勢よく流れ落ちる音がしていました。
加茂川が生まれ落ちる瞬間に立ち会ってる気分でした。



木の階段。

八丁坂から山頂まで、たくさんあった木の階段ですが、
板の表面に細かい傷がたくさんできてました。
冬季登山者のアイゼンの鋭い爪や、
キャップを付けてないストックの先端などで、
どんどんと傷ついてゆきます。
傷は腐食、破損に繋がる元凶。
安全登山のためにも大切に利用したいものですね。



二の鎖上部合流地点。

目印はこの道標。

「←成就 4.2km 土小屋 3.2km
 石鎚山頂 0.4km→
 土小屋・成就(二の鎖経由)↓」



尾根の上のテラス状な場所。

このテラスで道は右にくぃっと折り返しますが、
北壁を間近に見ることができるポイントです。

縦に割れた岩壁がせり出し聳えています。
この日はクライマーはいませんでしたが、
休日などは岩壁に取り付いた姿をよく見かけます。

弥山方向を見上げると、三の鎖が光って見えました。
今日は誰も登ってないなぁ…。

しばし、狭い迂回路が続きます。

岩塊でできた頂上直下ですので、落石注意。
落ちて来る石にも注意ですが、
自分も石を落とさないように気を付けて歩きましょう。



道を挟んで沢の土砂が崩れていました。
でも、土砂をよく見ると-

うわっ! ゴミだらけ!! それも錆びた缶や瓶など、古いゴミがかなり。

縦文字ロゴのファンタグレープの缶が混ざってました。
コカコーラ社に問い合わせたところ、
1968年発売開始、1975年頃まで売られていたものだと云うことが分かりました。
実は昭和の登山ブーム時、
山小屋の大量のゴミは小屋の裏に不法投棄されていました。
発覚後も大量すぎて回収もできず、そのまま放置されました。
三の鎖元小屋の工事の影響か、隠れていたゴミが顔を出したようです。
そこにペットボトルなどの平成のゴミも混ざり、
無残な有様に心が痛む思いでした。



  

三の鎖元のトイレが頭上に見える辺りに、
面河や二ノ森からの登山道への分岐があります。

こちらがその分岐で、下る感じで面河乗越しへ向かっています。

「←二ノ森 3.0km
 ←面河渓 亀腹まで 8.1km」

「←石鎚山頂 0.3km 面河渓 12.0km
 成就 3.3km 土小屋 4.3km↓」



三の鎖元に到着。
三の鎖元もリニューアル工事中で、
避難小屋も撤去されてしまいました。
また、工事現場を通過できる状況にないため、
三の鎖は当面、通行止めとなります。

青い小屋は、垂れ流しで問題のトイレ。

バリケード越しに覗くと、避難小屋はすっかりなくなっていました。
新しい小屋がどんな姿で登場するのか、いまから楽しみです。

というわけで、三の鎖もパスし、
迂回路をヘロヘロ、登るのでした。
もうとっくに肩で息してるわ、
心拍数もアップアップで、
てすりにすがって必死こいて登ってます。

高いです、怖いから谷側は歩けません (>_<)



季節的なこともあるんだと思いますが、
ハエみたいな羽虫が大量発生。
口開けて息してたら何匹も吸い込みそうだったので、
手のひらで鼻と口を覆ってしばらく歩きました。
ただでさえ、息苦しいのに…。



振り返り、成就からの道筋を。

写真左上が成就。
改めて、アップダウン、凄いです。

今朝とは逆に遠く見える成就社。
帰りも遠いなぁ…。 



えっちらおっちら。
階段の狭い踏面にたまにつまづいたりしながら登っていたら、
いつのまにか山頂の肩に着いてました。
稜線上にある肩を左に曲がり-

  

面河側、西ノ冠岳、二ノ森などの山並みが目に飛び込んできたら-

弥山山頂に向かっての最後の直線です。
石鎚山頂で宿泊・休憩できる「頂上山荘」の脇を登っていきますが-

山荘の裏に風力発電施設ができてました。
ちなみに右の小屋はトイレ。



  

ついに、石鎚山頂・弥山に到着しました! ばんざ~~いっ!
写真左が頂上山荘で、
中央が三ノ鎖のアンカーとなっている「山頂岩座」、
右が石鎚神社頂上社です。
頂上社の下の石垣内部は避難小屋になっています。
二の鎖からの登山道の整備が行われたとき、
頂上山荘や頂上社も新しく建て替えられ、
山頂周辺の岩体の安定工事も行われました。
山頂広場を縁取っている岩は人工石だったりします。

頂上にも王子社、35番「裏行場王子社」。
「御裏ののぞき」と云うの行場だった場所で、
“閼伽の水”が湧き出ていたんだそうです。

「国定公園 四国霊峰 石鎚山 標高1982m 石鎚神社頂上社」
正確にはここ弥山の標高は1974mで、
1982mの最高峰は、ちょい先にある天狗岳です。

頂上社へ。

右は本殿、左は神札授与所。
では、登山無事を感謝し、無事下山を祈って、2礼2拍手1礼。
※頂上社の撮影に関して、御神像が映るような撮影は禁止されていますので、ご注意を。
神札授与所では頂上社のネーム入りにお札やお守りを購入できますし、
神職さんが常駐されてますので(5~10月)、
ご祈祷もしていただけます。

頂上社の奥にある「山頂岩座」頂点に鳥居が祀られています。

三の鎖の終点ですが、通行止めでした。

  

さあ、頂上からのパノラマを楽しみましょう。
こちらは、面河側、西側の雄大な山並みです。
写真左側は石鎚スカイラインが走る高知県境の山並みで、
白い雲の下に高知の山並みが綿綿と連なり、
天気のいい日は太平洋も望めます。
写真中央から右は石鎚山系から皿ヶ嶺連峰に連なる山塊で、
1000mオーバーのピークが並んでいますが、
石鎚から離れるごとに背が低くなっていきます。

  

県内の雄峰を一望できるパノラマをアップで。

  

西ノ冠岳越しに望む松山(道後)平野。
この日は興居島や由利島まで見えました。

  

高知県内の山山から四国カルストにかけての山並み。

対面にある1866m峰直下にある愛大避難小屋。

もう少し視野を広げて、
最高峰「天狗岳」を中心としたパノラマ。

切り立った姿の天狗岳。

天狗岳にはナイフのように切り立った稜線を
たどってようやくたどり着くことができます。
大体、片道10分くらいの距離です。

天狗岳頂上にも王子社、36番「天狗岳王子社」。
さらに稜線を行くと同じ標高の「南尖峰」があります。

北から東にかけての眺めです。

土小屋方面。

  

今回、何度もアップにしてきた瓶ヶ森をもう一度。
石鎚山頂からなら、瓶ヶ森林道も目で追うことができます。

視点を下げて、成就や大森山など、石鎚山麓の山谷を。

さてさて、やっと昼食です。
今回も即席のイタリアン、美味しくできました。
調理中、犬連れの登山者が登ってきたのですが、
お腹をすかせていたのか、その犬が匂いに惹かれ、
僕の目の前にちょこんと座り、
「味見するワン」って可愛い顔で見上げてきました (^^;)
でもね、これ、唐辛子の入ったパスタなの、
犬にはあげられないんだ、ごめんね。

食事後、頂上山荘を訪ねてみました。

1階は長い廊下が真っ直ぐあって、
窓側にお土産物などが並び、レジは右。

廊下の奥には休憩スペースがあったり、
石鎚のきれいな山岳写真などが飾ってありました。
ちなみに、石鎚神社の経営です。

廊下の右側に食堂スペース。

石鎚チキンカレーは800円。

さあ、ロープウェイの最終が出るまでに戻らなきゃ…。
下山ルートを見下ろしてたら、ヘリが飛んで来て、騒がしくなりました。

  

やがてヘリは、登ってきたときに見つけたヘリポートに
すぅ~っと降りました。
事故が起きたわけではないようだけど、
下の鎖元の工事現場になにか用事があった感じでした。



下山時の様子をちょっち、おまけ掲載しておきます。

ロープウェイの最終に乗り遅れないよう、急いで下山したのですが、
下り坂とは云え、階段だらけだと、急ぐに急げず、時間がかかりました。
段差をドスン、ドスンと着足するような下り方はヒザを痛めてしまうので、
下りこそ、後日の筋肉痛の元凶なので、急ぎながら慎重に下りました。

最後に登り坂に変わって襲ってくるラスボスな八丁坂ですが、
心配したほど辛くなく、中ボスくらいな感じでクリアすることができました。
でも、何度も立ち止まり、水を飲み、呼吸を整え、心拍数が下がるまで休み、
大変は大変でした。


成就の神門が見えたときはうれしかったぁ。

神門の裏にはこんな文言が掲げてあったんですね。

早速、本殿、遙拝殿にお参りし、
無事下山を感謝しました。
無事帰宅もお願いした後、
リフトへ急ぎました。



リフトの最終にも余裕で間に合うことができました。

リフトの係員さんが、
リフトの座席を持ち上げ、終了の準備中でしたけど。

リフトは下りの方が高度感があって、正直、苦手です。



石鎚登山ロープウェイにも早めに到着。

4時20分発のロープウェイに乗り込むと、
僕を含めてお客さんは10人ほど。



そして山麓下谷駅着。
さぁ、後は家に帰るだけ。
でも、松山まで帰るんだよなあ。
ああ、遠いなぁ…
いやいや、帰宅するまでが登山だ。
最後まで気を引き締めて帰るぞ!

ひとりごと

二の鎖、三の鎖と、石鎚登山と云えばこの景色、って場所ですが、今回もあっさりパス (^^;)
高所恐怖症だからって、鎖を一度も登ったことがないわけじゃありません。
初登頂したとき、二も三も登りました。
あれは5月の連休中、今回の訪問時と似たような頃。
なんのためらいもなく、鎖に取り付いたのですが、攀じり始めて間もなく、靴底が岩場登りに適していないことが発覚っ。
ホーキンスの革の登山靴っぽいハイカットを履いていたのですが、岩が湿っているだけで、ぬるぬる、つるりん。
安心して体重をかけられないのです。
おまけに、登るほどに岩陰にこびりついた残雪があらわれ、まさに足の踏み場もない状況。
あきらめて下ろうかと下を見れば、連休中なので、どんどん人が登ってくる。
下りの鎖に移ろうにも、離れた鎖に移動できる足下じゃない。
ああ~、大ピンチ!!
鎖の所々には、乗馬の“あぶみ”のような三角形の鉄の輪がぶら下がってたりします。
鎖そのもののつなぎ目の輪っかがつま先が入るくらい大きかったりもします。
そのおかげで、なんとか先に進むことができました。
下からどんどん登ってくる、でも、上にも何人もいて、ゆっくりにしか進めない状態。
慌てず、急がず、いい足場を選びながら登り切ることができました。
でも、そのときのドキドキハラハラ感が脳にこびりついてるので、以来、鎖には取り付くことをやめています。

お山開き中など、白装束の信者さんが鎖をどんどんと登っていくけれど、足下はみなさん、足袋(地下足袋)。
足袋はマタギを始め、山仕事される方も愛用されてます。
自然に小股歩きになるので、疲れない歩き方になると云われています。
親指のところが分かれてたりして、踏ん張りも効く。
靴底が柔軟だし、なんといっても地面の感触がよく伝わるから、クライミングブーツに近い感触で、岩場に適してるみたい。
生ゴムの素材なら、濡れた足場でも滑りにくいし。
最近は運動靴のようなエアークッションの入った靴底のものもあるし。
お山歩に足袋、前前から試してみたいと思っていたりします。

鎖場の鎖は、試しの鎖、一、二、三の鎖と、鎖場は現在、4ヶ所あります。
明治5年(1872)に出版された「愛媛面影」には、“一の鎖十七尋・二の鎖二筋三十三尋・三の鎖七十五尋”と書かれています。
(「愛媛面影」の著者で今治藩の儒学者だった半井梧菴が石鎚山に登ったのは文久2年(1862))
幕末頃、上り用下り用と分かれていたのは二の鎖だけだったようです。
ちなみに、一の鎖の上りが増設されたのは、昭和41年(1966)10月です。

石鎚の鎖は、よく見ると、鉄の棒の両端が輪になっている「○──○」をつなぎ合わせたもの。
小さな鉄輪でできたチェーン的なものではありません。
ひとつひとつが太い鉄の棒でできており、頑丈です。
お山開きの大祭中なんか、それこそひっきりなしに人が取り付き、大渋滞するほどの人がぶら下がっても切れないんですから。
石鎚の神様のパワーが宿っているので、そうそう、切れることはないのでしょう。
と、云いつつ、江戸や明治の頃に切れた記録は残っています。
安永8年(1779)に、石鎚山弥山の鉄鎖が切れたと、前神寺の文書「石鉄山弥山鎖筋之覚」があります(三の鎖)。
安政2年(1855)にも、切れた二の鎖を修復したことが分かっています。
明治10年(1877)7月にも、二の鎖は切れました。
どのような状況下で切断に至ったのかは分かりません。
当時のことですから、腐食に対して弱い鉄材でできた鎖が混じっていたのかも知れません。
安永8年に切れた三の鎖は翌年、掛け替えられました。
切れた鎖の一部は、白石旅館に現存するほか、西条市の嘉母神社の参道階段の手すりとして残っています。
また、麓の石鎚神社の本殿手前にある石段の手すりとして再利用されている鎖も、弥山に懸かっていた鎖です。

鎖は懸けっぱなし、と云うわけではなく、何十年かに一度の割合で懸け替えられています。
さらに、ほとんどは、個人や団体が寄進・奉納したものです。
天保14年(1843)には、当時大洲領だった五本松村の庄屋の源左衛門が鎖を寄進した記録が、小松藩の記録に残っています。
明治13年(1880)には、伊予市上三谷の水口重太郎ら大勢の信者らが、広島で鎖を購入。
伊予市の郡中から鎖を背負って歩き、石鎚山まで運び上げ、たった4日で懸け替えたそうです。
もっとも新しい記録では、平成2年(1990)5月、三の鎖が懸け替えられました。
切れた翌年(安永9年(1780))に交換されてから210年間も保ったんですねぇ。
まさに、石鎚の霊験あらたか、と云ったところでしょうか。

さて、そんな鎖場をパスできる迂回路。
近年、山頂のリニューアル工事にともなって新しく架け替えられました。
切り立った岩場からせり出すように設置された通路などは、“架けた”と表現した方が似合っています。
この迂回路の歴史は全然新しくて、昭和18年(1943)8月6日にできたものです。
当然、それまではあの鎖を登らないと頂上に立てませんでした。
岩壁に懸けられた鎖を登る、まさに山岳信仰、修験者の修練の場所、霊山にふさわしい光景だったと思います。
迂回路ができてから、子どもでも安心して登れるようになり、一気に観光地化が進みました。
(一応、鎖は子どもでも登れますし、西条には子どもの頃、登ったことがある大人も多いです。)
僕が初めて登頂した頃の迂回路は、建築現場の足場板と木道でできた、スリル満点な代物でした。
岩盤に打ち込んだ何本もの細い鉄筋で支えられたよれよれの鉄板や木道はぎしぎし音を立てます。
手すり代わりのロープはゆるゆるに張られて頼りなく、通路の内と外を区別するだけのようなものでした。
正直、一ヵ所に何人もが乗ったら、もろとも落下してしまいそうな怖さがありました。
まぁ、そんな事故は最後まで起きなかったですけどね。
高所恐怖症な僕にはたまらなく、怖い場所でした。

石鎚山における滑落死傷事故のほとんどは、二の鎖から山頂の間で起きています。
年代別で云えば、昭和の登山ブーム期の事故が最も多いです。
昭和34年(1959)3月、冬山装備もせずに単独入山した小倉市の高校生が二の鎖付近で氷で約300m滑落。
腰・胸を強打する3ヵ月の重傷を負いました。
昭和40年(1965)には、大阪府の会社員が三の鎖付近で滑落負傷、2日後に救助されました。
途中で仲間になった大学生は頂上で別れた後、面河側で行方不明となり、遺体となって発見されました。
同年夏には信者が団体で登っていた際、一人が三の鎖の迂回路から約40m転落し、頭蓋骨骨折・両鎖骨骨折等の重傷。
昭和43年(1968)、福岡県の男性(77歳)が家族と登山中、霧で濡れていた二の鎖を下っていた際、約20m滑落し、頭を強打して即死。
その一月後には、高松市の男性(78歳)が二の鎖の迂回路で約10m下の岩場に転落、意識不明。
昭和45年(1970)、愛知県の会社員が友人と二の鎖をロープで下山中、足を滑らせ宙づりになって約5m転落、頭や首に2週間のけが。
昭和47年(1972)にも、山口県の大学生が仲間と二の鎖付近を下山中、断崖から約100m転落し、左足・腰を強打重傷。
などなど、ほかにも多数。
平成に入っても転滑落事故は起きています。
迂回路ができて安全に登頂が楽しめるようになりはしました。
でも、一歩踏み外せば奈落の底、と云う状況は開山以来、まったく変わっていません。
迂回路がより強固なものに生まれ変わったせいで、逆にその安心感から油断が生じてしまうこともあるでしょう。
案外、以前のぎしぎし音がして綱渡り的だった前の方が、みな慎重に歩くので、心理的には安全なのかも知れません。
リニューアル以降、事故が激減したのは云うまでもありません。

さて、訪問時は、三の鎖元にあった小屋はすでに撤去され、新しい小屋が建つ予定となっていました。
三の鎖はその工事現場を抜けた奥にあり、工事中は立入禁止、鎖を攀じることはできませんでした。
三の鎖が登りたかった人には残念でした。
三の鎖元の小屋(避難小屋)ができたのは昭和42年(1967)5月。
石鎚神社が、避難小屋機能とお山開き夏季大祭中の社務所を兼用するために建設したものです。
ただ、小屋の場所は、石鎚神社が所有する参道内からはずれた国定公園指定区域内でした。
借地の申請とか建築許可がなかなか下りなかったそうです(昭和41年(1966)8月、許可)。

以前の三の鎖元の避難小屋付近。

あと、後日、三の鎖元にあるトイレは二の鎖元の小屋があった場所に建て替えられました。
正直、垂れ流しで、夏場など、三の鎖元に近付いたことが匂いで分かるくらい、環境に負荷をかけっぱなしでした。

三の鎖元を通過すれば山頂まであとわずか。
でも、これまでの歩き疲れで一番しんどいところです。
足が上がらなくなってきてるので、もう、下ばっかり見て歩いてます。
そしたら、突然、ハエのような羽虫の大群に襲われました。
もう、ぶんぶん、わんわん、盛んに飛んでました。
肩で息してはぁはぁ、口を開けてたら、何匹吸い込んでしまうか分からないくらい、飛び回っています。
石鎚でこんな状況はいままで経験したことがありません。
(東黒森などで、アリが羽化する季節にぶつかり、羽アリの大群に悩まされたりはしたけど)
思えば二の鎖元から登り始めてすぐ、下山してきた女性が帽子の上からモスキートガードの網を被っていました。
そのときは、「なにを大げさな」と思ったんですが、ああ、あの格好はこの大群のせいだったのかと、納得。
口を手で覆い、ゆっくり急いで通過しました。

あの大群と関係があるのかないのか分かりませんが、道中、いくつかの場所で、ゴミが散乱している光景を目にしました。
ゴミは多分、小屋の建て替え工事で出てきたもののようで、以前は見られなかったものです。
と云っても、工事の廃材が捨てられているのではなく、ゴミをよく見ると、かなり古いデザインの缶や瓶が混ざっています。
どうやら、昭和の登山ブームの頃などに、小屋から不法投棄され続けていたゴミが顔を出したようです。
昔は、環境についてうるさく云われなかった時代で、石鎚の山小屋もどちらかと云えば商売優先でした。
登山客が飲んだジュースの缶やビンは、下界に背負い降ろすことをせず、裏や離れた沢に捨てていたのです。
空き缶一つでも目立つ現代の感覚からすれば、それはもう恐ろしい量で、まるで空き缶の川のような有様でした。
県や市、環境省も調査に動き、山小屋に対し、ゴミを処分するよう指示しました。
でも、あまりの量で、結局、放置されたり、上から土をかぶせて見かけ上、ないものにされたものも少なくなかったようです。
ゴミの上をササが覆ったりして、しばらくは見えなかったものが、今度の山小屋工事で沢の環境が変わったのでしょう。
春になって雪解け水がゴミが隠れていた沢を流れて表面の土を剥ぎ、眠っていたゴミが露わになった、そんな感じがしました。
ゴミの中に、縦書きでファンタ・グレープと書かれた缶を見つけました。
帰宅後、コカコーラ社に問い合わせてみたら、1968年発売開始、1975年頃まで売られていたものだと、すぐに回答が届きました。
(コカコーラ社のお客様サポート、えらい!)
当時は、石鎚スカイラインが環境を破壊しまくって建設された頃。
スカイラインの工事手法が自然に対してあんまり酷すぎるので、文化庁・環境庁が「復旧勧告」を出したほどでした。
全国自然保護連合会が自然公園法等に対する違反を理由に愛媛県知事を松山地裁に告発したりもしました。
逆に云えば、自然保護に対する民度、企業理念も低かった時代でした。
いずれにせよ、あのゴミはどうなるのかなぁ。
結構な急傾斜地なんだけど、ちゃんと処理されるかなぁ。
ゴミは新たなゴミを呼び込んでしまう。
早くきれいにして欲しいと願うばかりです(って、僕自身がそうやって他人頼りなのもよくないんだけど)。

なんだかんだあって、弥山頂上到着、バンザイ!
平日なのに、頂上広場はまあまぁな人出でした。
さすが、日本百名山、といったところでしょうか。
頂上社にお参りした後、やっとこさ、昼食しました。
食事中、小型犬を連れたカップルが登ってきました。
その犬がよっぽど腹を空かせていたのか、僕の目の前に座り込んでしまいました。
「一口でいいからおくれよ~~」と、当然、くれるでしょ、的な目で見つめられてしまいました。
離れたところに座ってるおばさんが「ほら、美味しい匂いに誘われて…」とこっちを見て笑ってます。
図らずもたくさんの人に注目されてしまいました (^^;)
でも、食べてるのは辛子の効いたパスタ。
犬にあげていいものか分からないし、辛みで下山中、お腹を悪くしても可哀想だったので、あげられませんでした。
間もなく、頂上社にお参りに行っていた飼い主が戻って来て、犬は離れていきました。
やっと、エサにも水にもありつけて、満足した様子でした。
それにしても、あの小型犬、よく登ってこられたなぁ。
階段部分は抱っこしてもらってたんだろうけど、土小屋からだって結構な距離だし、大冒険だったろう。
ちなみにですが、僕は犬連れの登山者が大嫌いです。
確たる理由はないのですが、食わず嫌いと似たような感覚かな、嫌いなものは嫌いです。

さて、弥山の頂上のことですが、頂上社や山荘は近年に建てられたものです。
昔は祠があるくらいでした。
祠については、室町時代の文明9年(1477)に、河野教通や細川勝久が弥山に銅製の宝殿を寄進した記録があります。
先に紹介した「愛媛面影」の中にも「山頂に文明の年号が入った銅製の祠あり、中に銅像三体・銅の狗犬等があり」と登場。
最低でも、約500年以上前から存在していたようです。
太平洋戦争中の昭和18年(1943)3月には、軍部が山頂に気象観測所をなかば強行的に建設を開始。
石鎚山気象観測所は昭和20年(1945)5月から観測を始めました。
戦時中、気象データは軍事機密扱いとなり、天気予報の一般公開がとりやめになるほど、気象観測は重要でした。
といっても、石鎚山頂にはデータを送信するための電源がなかったので、役には立たなかったそうです。
(戦争には役に立たなかったけれど、山頂で克明に記録された気象データは、観測所が存在したこの短期間にしか存在しません。
現代でも貴重なデータとなっています。)
地下に食糧倉庫と貯水槽を備え、1階には事務室と宿直室がふたつ、風呂場や観測室、動力室など。
2階もあって、展望用のベランダなどがありました。
けれど、観測開始から間もなく、終戦を向かえ、国の財政が甚だしく困窮すると、ほどなく観測停止(昭和22年(1947))。
昭和23年(1948)に業務閉鎖すると、翌24年(1949)には、石鎚神社に払い下げとなります。
その後、観測所の建設資材も運び上げたりしていた強力の竹村さんが神社から借り受け、山小屋となりました。
ちなみに、二の鎖元にあった小屋はその竹村さんが大正時代にアメ湯売場として建てたものでした。
その後、竹村さんの後を受けて山小屋の主になったのが、石鎚山系山小屋開拓の父、白石早市さん。
白石さんによる山小屋経営は、頂上山荘としてリニューアルされるまでしばらく続きます。
一方、頂上社は、昭和39年(1964)に新築されました。
ヘリによる資材の運搬からすべての工事費用を、大阪朝日ガラスの社長一個人が出されたそうです。
その際に神札授与所もできました。
けれど、山頂の厳しい自然環境下では地上に比べ老朽化が遙かに早いです。
山小屋も頂上社も建て替えが必要とされるようになりました。
また、鎖場の迂回路も痛みが目立ち、三の鎖を支える頂上の岩盤も崩壊する恐れが指摘されました。
山頂広場も崖側の崩落する危険がありました。
そこで、石鎚神社が石鎚山開山1300年、石鎚神社列格130年、石鎚本教創立50周年記念事業の中核として、石鎚神社頂上社復興事業に着手。
今日の姿にリニューアルされたのでした。

新しい頂上山荘は、雑魚寝ですが、50名まで収容可能です。
予約制で、2013年現在、大人1泊2食つきで、8500円となっています。
食堂は一般利用もできて、カレーなどを食べることができます。
お土産も売ってて、今回、山頂でしか買えないバッジを買ってきました。
(お山のバッジ集めでも始めようかなぁ)
ジュースやビール、スナック菓子なども売ってますが、当然、“山価格”です。
ちなみに、成就の自販機は200円、ロープウェイ山頂成就社は150円が相場です。

さて、今更ながら、石鎚山の最高峰は頂上社のある弥山、ではなく、天狗岳です。
残念ながら、下山の時刻が迫っていたので、天狗岳は今回も見送りました。
天狗岳へは2度、行ったことがあります。
切り立ったあの北壁の上を歩かなきゃならないのが非常に恐ろしかったです。
崖下を覗くと、股間がきゅ~~んとなって、腰が抜けそうになります (^^;)
一度、その先の南尖峰まで行きましたが、天狗岳も南尖峰もただの岩の天辺、小さな祠があるだけです。
天狗岳には10分くらいで行けるので、今度、土小屋からアクセスした際にでも再訪してみようと思っています。
ちなみに、成就から頂上社までの登山道は参道として石鎚神社が所有しています。
天狗岳は、営林署から借地して石鎚神社が利用しています。

それと、弥山や天狗岳に三角点はありません。
北西に少し離れたピークにあります。
多分ですが、石鎚山山頂は神域なので、国土地理院側が遠慮したのか、神社側から申し出があったのかのいずれかでしょう。

そんなこんなで、楽しい時間はあっという間に過ぎ去って行きます。

帰りは、ロープウェイの最終が出てしまう前に山頂駅にたどり着かなくてはなりません。
その前に、リフトの最終にも間に合わないと、成就から歩いて下山しなければならなくなります。
表参道を日帰りする場合は、常にロープウェイの最終時刻を頭に入れて行動しなければなりません。
初めて歩く表参道、どれくらいで戻れるか、さっぱり分かりません。
ガイドブックなどには、2時間半とか2時間とか、結構、曖昧な時間しか書かれてありません。
でも、それは当然、上級、初級、大人、子ども、足の速さはまちまちです。
取りあえず、一番遅いコースタイムのものを参考にするのが無難です。
だって、上りを2時間半とする資料が多い中、僕は3時間40分もかかったんだから。
ラスボス「八丁坂」の登り坂もあるし、そんなに早くは下れないかも…。
そう思って、ロープウェイ最終の3時間前の午後2時に下山することにしました。

って、思ってら、ヘリが急に飛んできて、夜明峠近くにあったヘリポートに降下。
ヘリ見物してたら、また遅くなってしまいました。

急いで下山と云っても、下りこそ、ゆっくり慎重に足を運ばないと。
無理すると、すぐにヒザを痛めるし、後日の筋肉痛の元凶となってしまいます。
以前、土小屋へ急いで降りたら、ヒザは痛いわ、翌日から足が棒のようになって家の階段の上り下りも辛いわ。
トイレに座るのも大変だわで、エラい目に遭いました。
なるべく、どすどす、着足しないよう、ストックも上手に利用して下りました。
三の鎖元を過ぎた辺りでした。
朝、成就に着いたとき、白石旅館の前にいた白装束で信者さんかお遍路さんだろう人がいました。
僕より少し先に出発され、でも、試しの鎖の手前の階段ゾーンで追い越したんですが、その人がやっと登ってきたのです。
疲れ切った足取りでは日帰りは絶対無理な時間に登ってらっしゃいました。
もう少しですから、がんばって、と声をかけさせてもらいましたが、大丈夫かなぁと後で心配になりました。
聞かなかったので分からないんだけど、頂上山荘に泊まるんだったらいいけど。
成就まで戻って白石旅館にでも泊まるにしても、あの疲れ切った体じゃ、夜道になっちゃうだろう。

八丁坂まではほぼ下りなので、往きにあれだけ苦労した階段ゾーンも楽でした。
心理的には、どこまで降りても階段な、まるで無限階段のような感じもしたけど。
先に下山したグループを追い越し。
途中、GPSの電池を交換中に追い越していった人と、勝手にデッドヒートの下山レースをスタート。
結果、相手がストックの準備をしている間に逆転、そのまま八丁坂へ。
登り坂となって牙を剥く八丁坂。
さすがのラスボス。
更に後ろから、さっき抜いた登山者が追いついてくる。
う~ん、負けてなるものか!

と、気づいたときには神門に到着していました。
ラスボス八丁坂は、心配したほどではありませんでした。
今日は中ボスくらいでした。

成就社本殿、遙拝殿へ行き、無事登山を報告、感謝申し上げ、無事帰宅をお願いして、リフト乗り場へ急ぎました。
でも、デッドヒートを繰り広げたおかげで、成就までたった1時間半という、めちゃ早く下山できたので、リフトにも余裕で乗れました。
リフトは、まだ最終の30分前なのに、早々と搬器の椅子を上げて、終了準備中でした。
(夜露や夜半の雨で座面が濡れるのを防ぐため、座面の板を跳ね上げておくのです)
下りが怖いシングルリフトに乗り、瓶ヶ森を見ながら降下し、ロープウェイ乗り場へ。
4時20分のロープウェイに乗ることができたんですが、山頂駅でさきのデッドヒートの思わぬ結末が待っていました。
なんと、あの登山者が僕より先に着いてたのです。
リフトには乗ってなかったし、どうも、成就から徒歩で下山したようです。
ということは、下るときは、徒歩の方が圧倒的に早いのかも。
まさか、こんなところで負けを喫すとは…。
同じロープウェイで下山し、その人は同じ京屋の駐車場からクルマでさささ~っと帰って行かれました。
僕は往きと同じ帰りものんびりスクーター移動です。

あ、スクーターで思い出したけど、山頂で、福山からスクーターで来たって方がいらっしゃいました。
上には上がいます (^_^)

と云うわけで、石鎚山表参道、初お山歩終了です。
様々な発見や出会いがあったいい旅でした。
残雪も食べることができたし (^^;)
いつかまた、歩いてみたいけど、今度は成就の旅館か、頂上山荘宿泊込みがいいな。

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