石鎚山へ行こう!
表参道から
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前社森~夜明峠~二の鎖元

※↑東に15度回転しています、ご注意ください。
距離 約1.1km
標高差 約270m
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり

前社森小屋を離れ、夜明峠へ向かう道も結構な坂ばかり。

坂の途中には、積雪や雪崩の影響で、
枝や幹が一旦横に伸びてる木が目立ちました。



1631m標高点が打たれた剣山山頂に
ツツジが咲いていました。

でも、手の届かない崖沿い。
まさに高嶺の花でした。

左(南東)側が開けたので、目を凝らして見たら、
岩黒山、手箱山、筒上山が目に入り-

  

よくよく見たら、土小屋の白石ロッジや、
丸滝山の丸滝小屋も目に入りました。

こちらは、石鎚山東斜面の残雪のアップ。
GW連休過ぎても今年は解け残ってます。



三十六王子の32番「古森王子社」。
その昔、大木が生い茂る“古い森”だったそうです。
また、“古森”は“子守”から来ているという話もあります。

祠に合掌。
無事、登頂・下山・帰宅できますように。

夜明峠手前のピークを北から回り込み迂回して、
峠を目指します。 



ピークを迂回する階段からの、空の蒼と海の碧がひとつになった眺め。
目を惹く眺めのせいで、階段でつまずいたりしないように。

  

少しモヤがかかってますが、西条平野を一望。
雲が似合う石鎚山で海岸線まで見通せる日に巡り会えたのは、
運がよかったなぁと思うのでした。



不意に濃い森が途絶え、まばらな木立の足下にササ原が広がる、
日差しもまぶしい世界へ。
道の左側に三十六王子の33番「早鷹王子社」。

昔、ここで女の子が天狗にさらわれた伝説が残る地です。
山岳信仰に結びつく天狗と、女人禁制が入り交じった伝説です。



早鷹王子社から先は、久しぶりの下り坂です。
石鎚山の雄大な姿を正面に見ながら一息付ける下り坂です。

石鎚の東面は切り立った(切り落ちた)崖で構成されていて、
容易に山頂にたどり着けるようには思えません。
特に石鎚初心者は「私でもホントに登れるの?」と、
ドキドキすることでしょう。



もう日差しをさえぎってくれる森はなく、
肌がじりじり灼けるような尾根道が山頂まで続きます。
帰宅後、お風呂に入って気がつきました。
訪問時は5月の半ばでしたが、
顔や首、腕など、すっかり日焼けしてました、ひりひり。
日焼け対策も大切ですが、
汗で失われる水分、ミネラルの補給も重要です。

  

1652m標高点の「夜明(よあかし)峠」に到着。
役行者が夜を徹して登山した際、
ここで夜が明けたと云う逸話が峠名の由来です。
その際、従者が松明(たいまつ)を手に歩いていたことから、
参詣者ひとりひとりから「松明銭」8文を徴収する習わしが起こり、
それが明治初年まで続いていました。
いまで云う所の入山料ですかね。

「森の鳥たち」解説版の後ろ、
左(東)側の谷から登ってきた道がこの場所で合流します。

西之川~御塔谷~刀掛~天柱石と巡るこの道は、
役行者も修行した古道です。
時間はかかりますが、ロープウェイに頼らず、
山頂を往復できる登山道としていまに生きています。

  

再び「路程図」、その後ろに-

34番「夜明峠王子社」。

緩やかな登り坂。
登り坂だけど、空が開けてるから、
閉じた森の中より、全然、爽快。



まるで山頂まで真っ直ぐ登山道が続いてるよう。
石鎚の右側、ササ原の緑で優しい山容に見える頂は、
石鎚三角点が置かれた三角点峰です。
尾根を越えて行く風が心地良く、見晴らしもいいので、
ついつい、立ち止まってしまいます。

道前平野や今治の方、しまなみ街道沿いの島々が眼下に。

  

平野をアップで。



土小屋ルートの道筋も見える距離になりました。
谷筋に残雪も結構、残ってます。

ショウジョウバカマ。
久しぶりの再会。

振り返るとこんな感じの景色が広がっています。
下山時はこんな眺めの中を下って行くことになります。



森を前に、また階段…。

「←成就 2.6km 石鎚山頂 1.0km→」



  

汗をかきかき、階段を登っていたら、
また青い小屋に出合いました。
無人のこの小屋は「一の鎖小屋」。
固く閉ざされていました。
小屋前を過ぎた正面の岩壁には、
「一の鎖」と呼ばれる鎖場があります。

長さ33mに及ぶ鎖です。

大きさはこんな感じ。

はい、鎖はまたパスしました (^^;)

迂回路あるし~

折角あるんだから、
使わないともったいないし~ (^^;)



一の鎖を登り切った辺り、空が広いです。

来た道を振り返って。



ここまで来ると、二の鎖、三の鎖の鎖場も見えてきます。

  

(写真左から)南尖峰、天狗岳、弥山、面河乗越しの尾根。

鎖場部分をアップで。
土小屋ルートと合流する二の鎖下辺りから、
なんか工事してるみたい…。

石鎚登山の歴史

 西日本最高峰である石鎚山は古くから信仰の対象となっていましたが、石鎚山における近代登山の歴史は、1923年(大正12)、松山高校旅行部(登山部)長に北川淳一郎教授が就任し、翌23年に石鎚山系縦走が行なわれたことに始まります。
 1925年(大正14)には北川淳一郎著「四国アルプス」が刊行され、松山中学、西条中学にも登山部が生まれ、一般の登山者も数を増していきました。
 登山の対象として石鎚山が全国的な注目を集めたのは、1953年(昭和28)第8回国民体育大会登山競技が面河渓で行われてからといわれています。
 1968年(昭和43)には、石鎚ロープウェーが下谷と成就社間で開通し、1970年(昭和45)には石鎚スカイラインが面河村関門から土小屋間で開通し、一般の観光客にも登りやすい山となりました。
 またスキーの歴史も古く、1926年(大正15)には久万町の三坂峠にスキー場が開設され、1978年(昭和53)には、ロープウェー成就社駅近くにミニスキー場がつくられました。



  

ササ原の道をとぼとぼ歩いていたら、
左の斜面を登る踏み跡発見。

なんだろう?と思ってたら、看板がありました。

「緊急用ヘリポート」
西条の消防と県の消防防災航空隊が設置したようです。



まだまだ続くササ原の道。
ふと、(今度は)道の右側に、
ミステリーサークルのような円形の広場が3つほど点在してる場所がありました。

休憩場所かと思ったら、実は二の鎖下キャンプ場でした。

キャンプしたい人は、成就の白石旅館か、
土小屋の白石ロッジへ届け出が必要です。

テントひと張り分の広さだけ。
水場もトイレもありません。

テン場からの眺め。

丹原、壬生川、朝倉、今治、しまなみ海道、
さらには尾道、福山の山並みまで。



道ばたになんか立ってる…。
なんだろうとよく見たら、登山者を数える装置でした。
データは、小屋や登山道、トイレの整備に利用されます。

ふたつのセンサーで上り下りを分けて
カウントできるようになっています。

電源は太陽電池。
触らないようにね。



二の鎖下に到着しました。
到着早々、なんか違和感があるんですが…。

木の鳥居が登山者を出迎えてくれます。

  

この場所で左(東)から来る土小屋ルートと合流します。
下山時、絶対、間違えちゃいけない分岐です。

振り返って。
写真右が土小屋ルート方面で、
写真左に二の鎖元小屋が…あったはずですが、
な~んにもありません。

鳥居から上にあった小屋もすべて撤去され、整地作業が進んでいました。
そう、訪問時、石鎚山は山頂のリニューアルに続く改修工事が進行中でした。
この二の鎖下と上部の三の鎖下が改修工事の対象地域で、
小屋はすべて撤去されました。
この場所には、バイオ式の環境配慮型トイレが設置されることになりました。
それにともない、正直、垂れ流しだった三の鎖下のトイレは撤去される方向です。
現時点では、新しいトイレは2014年秋に完成する予定です。

ひとりごと

前社森から夜明峠まで、結構な登りが続きます。
標高が上がった分、見晴らしポイントが増え、余計に休憩してしまう場面も増えました。

この区間には、三十六王子の32番「古森王子社」、33番「早鷹王子社」、34番「夜明峠王子社」があります。
早鷹王子の“早鷹”には、天狗の意もあるそうですが、山岳信仰にまつわる天狗伝説と女人禁制が入り交じったお話が残されています。
それは代々、石鎚神社の神職を勤めている十亀家に伝わる口伝です。
ある先祖が10歳になる娘を連れて石鎚山へ登山に出かけました。
早鷹王子社に差し掛かると娘が急に弁当を食べたいと云いだしました。
父親が暖をとるために薪を拾っていると、そのほんの間に娘は忽然といなくなってしまいました。
それから毎日、父親は娘の無事を願う祈祷をかかすことはありませんでした。
3年経ったある日、遙拝所の前に、ぼろぼろの着物姿の女の子が現れます。
よく見ると、山で行方不明になった娘でした。
娘に話を聞くと、3年前に自分を連れ去ったのは、鼻が高くて顔の赤い大きな男で、羽根の下に抱えて連れ去られたそうです。
好きなものは何でも取ってきてくれたり、連れて行ってくれるほど、大事に育ててくれたそうです。
けれど、「お前はもうすぐ女になるから、もう一緒にいることはできない」と云われ、家に帰されたのだと。
この話に登場する“鼻が高くて顔の赤い大きな男”は、まさに天狗です。
そして、石鎚山は女人禁制、13歳にもなれば女だと、暗に戒めていると云われています。
と云うか、10歳くらいまでなら、女の子も遙拝の鳥居を越えてずっと先まで登れたってことですよね。

34番「夜明峠王子社」については、こんな話があります。
「窟の薬師」(第26番)と「祈滝」(第27番)で修行を終えた役行者。
今宮の八郎兵衛と四手坂の多郎左衛門を従えて夜道を登っていました。
尾根に出たところで夜が明けました。
後世、その場所は「夜明峠」と名付けられました。

修行の道中、従者の八郎兵衛は松明を持って歩いていましたが、それが後の世の松明銭の始まりとなります。
八郎兵衛の子孫は、松明銭として参拝者から一人につき8文を徴収する権利を得ることに。
でも、お金をもらってばかりではありません。
代わりに、遭難者を捜索救助する義務を負ったのです。
これは明治の初めまで続き、現代の「登山保護料」「入山料」徴収の原型になったと云われています。
現在、「登山保護料」は「登山保護初穂料」と名を変え、お山開き大祭中のみ、徴収が行われています。
登山保護初穂料は500円です。
納めると、青いリボンをくれるので、服などに付けておけば、それが納付の印になります。
青いリボンはルート途中でもチェックされるので、ちゃんと身につけておきましょう。

さて、もう一人の従者、多郎左衛門は遙拝殿の浄財を取得する権利を得たそうです。
これは先達階級会符の起源と云われています。
「先達」というのは、江戸時代に始まった石鎚講と呼ばれる信者の集まりの頭、リーダーのことです。
先達には「会符(えふ)」と呼ばれる木札が与えられます。
現在、男性の会符と女性の会符とがあります。
会符受けられる年齢は小学校卒業以上で、石鎚山に3回以上登った人限定です。
登山経験数は自己申告ですが。
一度いただいた会符は、家族、親族が代々、引き継ぐことができます。
初穂料は、5,000円。
石鎚神社本社に申し込みます。

ちなみに、僕のおじさんも、会符、持ってました。
おじさん、石鎚山、登ったことないって云ってたんだけど。
もしかすると、ご先祖様から受け継いだものだったのかな。
でも、その会符、いまは行方不明なのです。
伯父が元気な頃、一度、見せてもらいました。
そのとき、「お前に譲ったろか?」なんて云われたけど、当時は全然、ありがたさが分かってませんでした。
でもね、その会符、黒い会符だったんです。
普通、もらえるのは生木の札です。
黒は特別なもので、普通にはもらえないもの。
だから、やっぱり、ご先祖様から受け継いだものだった気がします。
ご先祖様は、丹原の方に住んでたから、石鎚山はずっと近しい存在だったと思うし。
その後、伯父は亡くなり、いまから数年前、ふと思い出して、いとこに訊いてみたんだけど、見たことがないって。
いとこは、お山は当然、お寺参りとか、そっち方面にはまったく興味が無い人。
遺品整理した際に、ただの黒い板きれとして、遺品に紛れて捨てられてしまった可能性が…。
ああ、もったいない!
譲ったろかって云われた時に、喜んで!って受け継いでたら良かった。

あと、先達には階級が存在します。
神社・本教に対しての功労・功績により、昇格します。
副取締→取締→副大取締→大取締→副大会長→大会長→副監長→監長→副大監長→大監長→特別大監長→
特選部長→名誉大監長→名誉部長→元老→元老顧問→元老大顧問 。
副取締から元老大顧問まで、17もあります。
階級バッジや笏が授与されるそうです。

さてさて。
夜明峠から一の鎖下までは、清々しいくらい見晴らしのいい、空が開けた区間です。
そんな素晴らしい場所で、昭和43年(1968)1月、米軍の対潜哨戒機がこの付近に激突しました。
乗員12人全員が死亡するという事故がありました。
近年、米軍の新型ヘリのオスプレイが四国上空で低空飛行訓練を行うことが発表されました。
その飛行ルート、通称「オレンジライン」は石鎚近辺も通っているようです。
石鎚山系は雲が湧きやすい地形、くれぐれも事故が起きないよう(騒音にも)充分気を付けて欲しいものです。

のんびりモードな尾根歩きから、また階段登り。
このまま山頂まで階段が続くんだろうなぁ、と思ってた矢先、一の鎖元に差し掛かりました。
まるで青いトタンでできたような小屋がありました。
中を覗いてみようかと思い、入口のドアを触ってみましたが、押しても引いても簡単には開きませんでした。
お山開きの時ぐらいにしか、開いてないのかも。
後で触れますが、二の鎖元の小屋が無くなったので、緊急の際の避難小屋として利用できればいいのに、と思ったり。

一の鎖はまたもやパスし、迂回路を登りました。
ちなみに、一の鎖から先がホントの神域。
信者は鎖元で草鞋を履き替え、入山していったそうです。
当時は、脱ぎ捨てられた草鞋が山となっていたとか。

高度感のある迂回路を進めば、やがて二の鎖元の、土小屋ルートととの合流・分岐点に着きます。
もうここから先は何度も歩いたことがある場所。
勝手知ったる場所、と云うことで、ちょっとホッとしました。
でも、なんか、違う…。
最初は、表参道から来たせいかとも思ったのですが、鳥居の所まで階段を登って、その違和感の正体に気がつきました。
階段の左右にあったはずの小屋群がまったくないのです。
整地作業が行われてる真っ最中で、小屋の残骸はすでに撤去された後のようです。
三の鎖元避難小屋がリニューアルされることは報道で見知っていましたが、二の鎖元の小屋も廃去するとは知りませんでした。
三の鎖元のトイレが垂れ流しだったので、二の鎖元に新設するという報道は見てました。
それに伴い、古くなった小屋を一掃したのかなぁ。
まぁ、二の鎖元の小屋はお山開きや繁忙期しか営業してなかったし、利用したことは一度もなかったけど。
昭和な登山ブーム期に作られたその雰囲気が嫌いではありませんでした。

在りし日の二ノ鎖元小屋群。

老朽化した手作り感たっぷりの小屋が並んでるのは、景観的にはあまり好ましいものではなかったなぁ。
懐古主義者には良かったんだろうけど。
なくなってしまえば、これまで通ってきた階段ゾーンと同じ雰囲気、延長って感じ。
更地になった場所の前を通ると、いつも通っているのに、どんな建物があったのか思い出せない、あの感じ。
二の鎖元の小屋群は憶えてる方だけど、ないならないで、淋しい感じもないし、困らないし。
違和感なく、新しい景色を受け入れていくことでしょう。

普段なら、階段に腰掛けて瓶ヶ森なんか見ながら、小休憩する場面。
上の方で小型重機はういんういん云ってるし、作業してるおじさんたちの横で休んでるのも少し心苦しい。
ゆっくりできる環境じゃなかったので、さっさと山頂へと向かいました。

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