永納山は、7世紀後半から8世紀前半の間に築かれた古代山城「永納山城跡」があるお山です。
高縄山地の東端、東三方ヶ森を頂点に今治市と西条市の市境尾根が燧灘に没する直前に位置する独立丘陵です。
周囲は世田山や笠松山、霊仙山などとともに、北の今治平野、南の道前平野、二つの平野を分かつ山地です。
東西780m、南北970m。
山頂のある山塊と、猿子川源流の谷に分断された尾根と三角点のある尾根が繋がった姿で、主に6つのピークがあります。
海岸線に迫る永納山の山裾を道路や鉄道が通っています。
世田山や医王山がある西側の谷は県道とJR予讃線が通っています。
海岸線や湯ノ浦山地と繋がる東側は国道196号線や今治小松自動車道が通っています。
さらに海岸線が近かった往時は西側の谷が主に利用されていました。
古くは今治桜井にあったとされる国分寺に至る「古代官道」が通っていたとみられています。
古代官道=飛鳥時代から平安時代にかけて日本全国で建設された古代の道路。
古くから交通の要衝でした。
この地域は日当たりのいい南向きの山裾を中心に、縄文や弥生、古墳時代の遺跡が150ヶ所以上と数多い土地柄です。
永納山でも15、6ヶ所、発掘調査が行われています。
なかでも、猿子川源流の谷を取り囲む尾根沿いに築かれた古代山城「永納山城跡」は国指定の史跡名勝記念物となっています。
古来、瀬戸内海は、大陸から畿内地方に通じる海上交通の大動脈でした。
その沿岸には、防衛拠点として古代山城跡が築かれました。
石城山神籠石、鬼城山、大廻小廻山城、城山、屋島などのほか、永納山城もそのひとつです。
古代山城については『日本書紀』に登場します。
663年に起きた「白村江の会戦」での敗戦後、百済の亡命貴族の指揮の下に築城されたとあります。
永納山城については記述はありません。
築造年代を直接示す遺物の出土もありません。(土塁崩壊土中から8世紀前半の土器は出土)。
正確な年代ははっきりしません。
発掘調査によって明らかになった構造とほかの古代山城との類例から、7世紀後半頃の築造と考えられています。
かねてより、遺跡があるだろう噂があったお山でした。
発見のきっかけになったのは意外にも昭和50年(1975)に起きた山火事でした。
焼け跡から人工的な列石(石の列)が見つかりました。
昭和52年(1977)から行われた旧東予市による分布調査により、古代山城の跡であることが確認されました。
それから20年以上経ってようやく、市は歴史遺産として整備保護する方針を定めました。
国指定の史跡に申請することを目的に、平成14年(2002)から2年に渡り、東予市教育委員会による発掘調査が行われました。
その際、山塊上に花崗岩製の切石列と土塁が確認されました。
現西条市に合併した後の平成17年(2005)7月14日、国指定の史跡名勝記念物に指定されました。
永納山城跡の外郭は絶壁状に切り立つ岩盤を巧みに利用したものです。
尾根の外側、やや下に直線的なものが屈曲しながら続いています。
範囲は尾根の傾斜に沿って東西約470m、南北約720m、全長はおよそ2.5kmにも及びます。
発掘調査は現在も続けられており、登山道沿いにはブルーシートや土嚢で保護された場所が点在しています。
なお、現段階では遊歩道の整備や、列石や土塁など出土した遺跡、それらを解説する看板などを整備する段階にも至っていません。
主な登山口は2ヶ所設けられており、尾根伝いに山頂に至る登山道があります。
登山道沿いの小ピークや山頂からは青く拡がる燧灘の多島美が望めます。
南には道前平野の田園地帯の奥に石鎚・赤石・法皇山脈が居並んで見えます。
北には今治の町並みが指呼の距離に見え、橋を連ねるしまなみ海道も眺めることができます。
|