永納山へ行こう!
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北登山口~山頂
距離 約400m
標高差 約60m
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所

では、北登山口から山頂を目指します。
ガードレールに多数立てかけてあった善人杖をお借りしました。

竹柵を抜けて登山道へ。
林道くらいの道幅があります。



このとき、もう夕方6時近かったので、夕闇迫って薄暗い道。
気づいたときには虫除けが汗で落ちてました。
撮影しようと立ち止まると、
腰に下げた蚊取り線香も恐れぬ吸血昆虫が襲来 (>_<)
お山歩や城跡巡りの際は、虫除け対策は必須、入念に、ですね。



道は右へカーブして行き、
やがて尾根と合流します

  

広い道は尾根と出会ったところで終わり。

  

左にくぃっと向きを変えて尾根を上がります。
下山時、ここを曲がって帰るのを忘れないように。



  

尾根を歩き始めてすぐ、
左に分かれ道のように見える段差がありました。
椎茸栽培などのために開墾された跡かも。



  

もちっと登ると、また左に段差。

この先、尾根筋っぽく狭くなります。



木立の中を、よく踏まれた踏み跡をたどり登ると-



北側が少し開けた場所がありました。

今治市街がかすかに見え-

  

しまなみ海道の来島海峡大橋も望めました。



山頂手前の白い地肌があらわになった小ピークへ。

山頂から北麓をのぞき込んだとき、
ブルーシートで覆われた場所が目に入ったんですが、
この場所がそうだったみたい。
土嚢で飛散を防いでるシートの下には、
どんな遺構が眠ってるんだろう。

永納山城の遺構は多年にわたる調査で、
2.5kmにも及ぶ長大な城壁が築かれていたことがあきらかになりました。
発掘調査報告書は数冊、刊行されています。
永納山城がテーマの書籍も複数出版されています。
県立図書館の蔵書検索で「永納山」検索すると37冊もヒットします。
せっかく発見された遺構を見たい人は少なくないと思うんですが、
手軽に見学できる段階には至っていません。
せめて、お隣の世田・笠松山を見習って、
現在の登山道を遊歩道化してもらい-

この眺めだけでも、手軽に楽しめるようになるといいんだけど(駐車場も整備してね)。

さて、山頂へ。
日が沈んじゃう前に…。



小ピークと山頂との鞍部。
山頂は指呼の距離。

ここから点点とある境界石と一緒に-

山道を登っていきます。



えっちら…。

おっちら… (^^;)



さくさくと山頂に到着しました!

山頂側から見た降り口。
帰り、間違わないでね。



おまけ。

今治方面から帰宅すべく、
国道を北上。
今治湯ノ浦ICの手前にある-

道の駅「今治湯ノ浦温泉」に寄り道しました。

トイレと本館の間にあるモニュメントですが-

待ってると、もやや~っと湯気が上がります (^O^)

本館の端っこには、温泉スタンド。
湯ノ浦温泉のお湯を持ち帰れます。

料金は、100円で100リットル!
軽トラに大型タンクを積んで、買いに来ませんか (^^;)

ひとりごと

永納山城跡についてです。

城跡は、史跡名勝天然記念物となっています。

昭和52年(1977)の山林火災で、隣の笠松山の山火事みたいに丸焼けになりました。
消防団が焼け跡から、それまで木や草に埋もれていた列石が露頭しているのを発見しました。
これがすべての始まりと云われています。
けれど、昭和36年(1961)には、一部の専門家が列石を確認していました。
あくまでも“一部の専門家”です。
お役所が関わってやっと、古代山城として広く認知されるに至りました。
昭和52年以降、度々、発掘調査がお山のあちらこちらで行われました。
列石、城壁、土塁、水門…、掘れば必ず何かが出てくる感じです。

永納山と医王山の二つからなる永納山城は、東西約470m、南北約720m。
面積は40万4400平方mは、甲子園球場10個分です。
城壁の長さは2.5kmという大規模なお城でした。
そんな大規模なお城が築かれたのは、7世紀後半頃だとみられています。
当時は唐や朝鮮半島にある国々との対外関係がもっとも緊張した時代でした。
天智2年(663)、倭国と百済(くだら)連合軍と、唐と新羅連合軍とが戦った「白村江(はくすきのえ)の会戦」が起きました。
日本は大敗。
その影響は大きく、外国に占領される危険性をもはらんでいました。
報復と侵攻を恐れた天智天皇は国家防衛のため、西日本各地に古代山城と呼ばれる拠点を次々に約30ヶ所も築きました。
九州北部には「防人(さきもり)」=辺境防備の兵が配置されました。
自身も難波(大阪)から近江京(大津)に都を移すなど、戦々恐々とした時代でした。
瀬戸内海の沿岸には、都のある近畿地方への侵攻を食い止めるため、古代山城が築かれました。
石城山神籠石、鬼城山、大廻小廻山城、城山、屋島などです。
これら古代山城は百済の亡命貴族の指揮の下に築城されたと『日本書紀』にあります。
永納山城についての記述はみられませんが、築城年代や構造などの共通性から古代山城だとされました。

古代山城は、松山城のような中世城跡にみられる高い石垣や天守閣は存在しません。
山の高さと取り巻く城壁が防衛装置の基本でした。
その全長約2.5kmに及ぶ城壁は、まずは、自然の岩壁を利用。
自然の花崗岩や粗割石の小ぶりな列石を基礎にし踏み固めた土塁で連絡していました。
城門や水門の遺構はまだ確認されていないものの、可能性のある石積みは確認されています。
大陸からもたらされた最新の築城技術は、「倭国」から「日本」へ変わっていったわが国の城塞建築に多大な影響を与えました。
多くの古代山城は、天智天皇の時代の終焉とともに廃城となったようです。
兵庫の城山城のように、山を巧みに利用したその立地条件の良さを活かし、中世山城として再利用されたものもあるようです。

史跡名勝天然記念物に指定されたのは、平成17年(2005)。
その年2月、文部科学大臣に対しての国史跡指定申請書提出。
5月には、国文化審議会から文部科学大臣に対して永納山城跡を国史跡に指定する旨の答申。
そして7月、永納山城跡を国史跡に指定することが告示されました。
時を同じくして、「永納山古代山城の会」も結成されました。

国の史跡にはなりましたが、調査発掘は継続中。
松野町の河後森城跡や大西町の妙見山古墳みたいな、歩いて見学、体感できる史跡公園化はまだまだ先の話でしょう。
国の史跡になったらなったで、ちょっと整備するにもいちいち国にお伺いを立てなきゃならなくなります。
登山道を遊歩道に作り替えるのも時間がかかるだろうなぁ。

さて、北登山口からのお山歩ですが、南口からに比べたら、あっという間の山頂でした。
麓に駐車して、坂道な側道を歩いて登ったとしても、30分はかからないんじゃないでしょうか。
南口ではへろへろになりました。
日が傾いた分、暑さが和らいだのもあって、撮影で立ち止まったくらいで、ほぼ、すいすいって登れました。
ピークハンターさん向けの登山道ですね。

複数のクルマで移動ができるなら、笠松山から世田山へ縦走して世田薬師へ。
その後、永納山を南から北に抜け、先起きしたクルマの乗り、湯ノ浦温泉に入浴して帰るようなロングコースもいいかも。

最後に。

永納山にはセミが結構いて、ビビらされました (^^;)
登り始めてすぐ、左右の林から一斉にセミが逃げ出して、ミミミミッ! ジジジジッ! そりゃもう大騒ぎ。
おバカなヤツはこっちに向かって飛んできて、ビクッと首を引っ込めてしまいました。
中には、クモの巣にでも引っかかったのか、逃げられない様子で、羽をババババババ! ジジジジッ! ジジジジッ! 鳴くし。
鳴きもしないで、急に逃げ出すヤツが一番、ビックリしますね。

それから、登山道はさらさらの真砂土のせいで、下山時、よく滑りました。
登りは大丈夫なんですが、急な下り坂ではズルズルってなりました。

それと、登山道には時々、けもの道のような分岐が現れます。
発掘調査などで支尾根や谷に入っていった踏み跡などが、メインの登山道から枝分かれしている部分があります。
また、道標などもありませんし、赤テープのような目印も最小限ですから、充分に注意して歩いてください。
崖もありますから、不用意に歩き回らないように。

歩き回らないように、と云えば、ブルーシートで覆われた発掘現場は無闇に歩き回らないようにお願いします。
ペラっペラのシートで覆われてるだけです。
、長年、腐葉土の下に眠っていた遺跡は、踏んだら足跡が付きそうなくらい、もろいものです。
また、現場は斜面が多いですが、真上に立つと斜面が崩壊する恐れもあります。
7世紀後半の遺跡だと云うことを忘れずに、撮影も見学も一歩離れた場所から、お願いします。
誰も見ていないからとずかずか立ち入って撮影した遺跡の写真なんか、ブログやツイッターに載せたりしたら、炎上必死ですからね。

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