楢本神社と市之川鉱山跡 | |||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱ | |||||||||
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①西条市、国道11号線。
加茂川にかかる加茂川橋のたもとからスタート。
瓶ヶ森林道やら笹ヶ峰とか行くときは橋の手前を右折して、
194号線に入ったりする交差点です。
目指す八堂山は川向こうにあるので、
車線に気をつけて橋を直進します。
橋の途中にある「だんじり」の模型。
秋祭りでは、奧の河原に沢山のだんじりが集結、渡御します。
目指す八堂山は、白いアーチの水道橋の奧に見えてます。
②徒歩道の登山口は加茂川沿いにあるため、橋を渡ってすぐの-
土手沿いの道へと右折します。
右折した際、その交差点で、
「五軍神慰霊碑」と書かれた看板が目に入りました。
「神風特別攻撃隊敷島隊」については、
小説「永遠の0」を読み知っていました。
国道11号線の加茂川橋はもう何度も渡ったことがあったのに、
今日の今日まで気づかなかった。
興味がないとことは、目にも入らないものなのかな。
取りあえず、お山歩前に訪ねてみることにしました。
③白いアーチの水道橋の手前を左に降ります。
④坂を下って水道橋の橋脚の手前を左折すると、橋脚の裏に-
とても立派な忠霊塔が立っていました。
忠霊塔の隣の石碑は西条出身の力士「高砂浦五郎」の記念碑。
明治から大正にかけて活躍、四股名は「朝潮太郎」。
「忠霊塔」は、明治以降の戦没将兵を慰霊する施設です。
「五軍神慰霊碑」はこちらではありません。
狛犬コレクション、犬っぽい、吽と-
阿、最近(平成19年)、新しいものに作り替えされたようです。
⑤忠霊塔の前の芝生の広場に沿って進み出た広い通りに、
鳥居が立ち並んでいました。
左の鳥居が西條神社。
右の大きな木の下にある鳥居が「五軍神慰霊碑」のある楢本神社です。
この通りは、写真左の石碑にある通り、秋10月の西条祭りの際、
だんじりや御神輿が集結する「お旅所(お神輿の休憩場所)」なので、
広く余地がとられているのでした。
真夜中に山車を取り巻く無数の提灯が揺らめいて、
それはそれは美しく幻想的な光景になるそうですよ。
入道雲のように聳える高い木がある、楢本神社。
入口の石碑には「西條発祥地 西條荘守護神」と。
境内主要建造物 |
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一、関行男慰霊碑 |
大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長 関行男中佐の慰霊碑を建立し 昭和50年3月21日 元航空幕僚長 源田実参議院議員により除幕。 |
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一、真鍋嘉一郎誕生の家 |
東大医学部に物理療法学の講座を開設し 初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を 昭和53年8月に復元して記念館とす。 |
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一、大東亜戦争特攻記念館 |
全国各地の同志の奉賛を得て 昭和54年10月25日に建設を終り 開館す。 |
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一、神風特攻第一號敷島隊 |
昭和56年10月25日全国の有志諸賢奉賛により 五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて 敵艦に突入の 250キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、19才、20才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ
大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ |
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日本が世界に誇る神風の 祀碑竝び建つ四国西条 |
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楢本神社のしるべ |
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一、鎮座地 |
一、鎮座地 西条市大町1,138番地 |
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一、御祭神 |
大国魂神外三柱 |
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一、祭日 |
春 4月7日 秋 10月15日 |
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一、由緒と沿革 |
西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが 詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。 |
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一、 |
産子 大町郷3500戸 |
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一、社宝 |
神宝貝正則作 短刀一振 |
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一、境内坪数 |
500余坪 |
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鳥居の左の慰霊碑が、
最初の神風特別特攻隊隊員5名を祀った「五軍神慰霊碑」です。
零戦が装着していた250キロ爆弾を模した石碑が、
戦闘隊形順に立ち並んでいます。
石碑だけでなく、遺品も埋めてあるんですね。
中央の石碑が敷島隊隊長 関行男の慰霊碑。
関中佐は西条出身でした。
左に、中野磐雄少尉、永峰肇飛曹長。
右に、谷暢夫少尉、大黒飛曹長。
裏から。
人間爆弾というイメージからか、
中央の碑の足下に爆弾の模型も置かれています。
個人的には、なんで爆弾?って感じでした。
結果的に人間爆弾となってしまっただけで、
彼らは最後の最後まで零戦の搭乗員であったはず。
造形にこだわるなら、
零戦にちなんだ形が最適だったのでは?
と思うのは僕だけかなぁ。
人類6千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。 |
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昭和50年3月 西条海軍会建之 |
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慰霊碑の左には、艦上型鉄製マストが立っています。
狛犬コレクション、吽と-
阿。
阿形の後ろにまた爆弾…。
こちらは、戦艦三笠の主砲砲弾。
戦艦三笠は戦後、横須賀の三笠公園に係留、
記念艦館として保存されてます。
僕も一度、見学乗船したことがあります。
この砲弾は明治38年5月27日日本海々戦において、聯合艦隊旗艦として東郷平八郎海軍大将が坐乗され、ロシアのバルチック艦隊を撃滅して世界戦史に赫々たる偉功を奏した戦艦三笠に装備されたものである。 |
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戦艦三笠主砲々弾 |
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型式 40口径30糎砲徹甲弾 |
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戦艦三笠の要目 |
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こちらは、戦艦大和主砲砲弾で、
「大東亜戦争 特攻将兵慰霊の塔」です。
側面には「青春の譜」も。
この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。 |
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戦艦大和主砲々弾 |
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型式 九四式45口径46糎砲九一式徹甲弾 |
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戦艦大和の要目 |
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青春の譜 |
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戦艦大和は大東亜戦争末期残存せる大日本帝国海軍のもう艨艟を率い沖縄方面に特攻出撃の途次昭和20年4月7日鹿児島県徳之島西方海上に於て敵の潜水艦と航空軍グラマンと反復攻撃により世界最大を誇る不沈戦艦も乗員3千余名と共に運命を共にせり。 |
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昭和55年8月15日 |
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「五軍神慰霊碑」の後ろに立つ関中佐の顕彰碑。
関行男は西条市栄町下組関勝太郎の長男、大正10年8月生誕す。 |
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昭和50年3月21日 |
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関中佐功績顕彰の歌 |
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栗田友市 作詞 根本邦雄 作曲 |
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1 武丈の桜精うけて 大和心の敷島隊 吹けよ神風 花吹雪 散りて尊き軍神 |
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境内の右側にある家屋は、眞鍋嘉一郎の生家を移築したもの。
物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者です。
産湯に使っただろう井戸も復元されてます。
舌代 |
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稀代の大英才、眞鍋嘉一郎先生は、この小さな家で明治11年8月8日に誕生し、松山中学に入学の15才まで起居されました。 |
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こちらが拝殿、2礼2拍手1礼…。
拝殿の後ろに「神風特攻記念館」もありました。
無人だったので、見学できませんでした。
誰かいないかな、と本殿の裏に回ったら-
取り外された口上を見つけました。
舌代 |
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神風特攻敷島隊関隊長、中野、谷、永峰、大黒の五軍神奉斎の慰霊碑に御参拝下さって有難うございます。 |
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関隊長には遺族がひとりもいないのかぁ…。
拝殿の左にあるのが「蝮石」と書いて“はみいし”。
ハミ=ハメ=マムシのこと、
ヘビちょろが苦手な人は拝んでおくといいかも。
神宝 霊石 |
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天保年間編述の西条誌巻三 大町村の項に左の如し記載しあり |
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八ヶ塔の用水 井手の端にあり 長さ3尺余、幅2尺位もあるべし、二つありて一つは少し小さし、当村むかしは |
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以下略 |
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お隣の西條神社も参拝しました。
しょう運の神 市民の社 とうしょうはん 西條神社 |
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徳川家康公と東照宮 |
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長く続いた戦乱を治め、天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康公は、慶長10年(1605)将軍の座を二代秀忠に譲った後も、大御所として駿府にあり、影響力を持っていました。 |
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西條神社解説 |
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当神社は、松平頼純公が寛文10年に市内西田二並山に創建した東照宮を合祀して、明治5年現在地に創建されました。 |
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平成16年4月奉献 春秋会 |
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境内には、山盛りの落ち葉から立ち上る煙がもくもくもく。
拝殿の右にある「鶴亀石」、乗ると願い事が叶うそう (^_^)
左には乃木将軍の家から持ち帰ったウメがありました。
⑥参拝を終え、再び、加茂川の土手道を走ります。
梅雨前だし、お天気続きだったから、加茂川の水は少なめでした。
⑦道幅が狭くなったところからサクラ並木。
ここは「武丈公園」、サクラの名所です。
歩行者専用橋の伊曽の橋から武丈公園、八堂山山麓へと、
四国のみちが通っているようです。
サクラが実を付けてました、食用ではないかな。
「武丈公園周辺観光案内図」
西条市名水・名木50選 武丈のさくら |
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愛媛県下でも有数の桜の名所となっている武丈。 |
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平成三年三月選定 |
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⑧サクラ並木は200mほどで終了し、三叉路に。
そのまま、川沿いを直進し、八堂山の麓へ。
八堂山の山裾の道は1.5車線の狭い道。
道の奧で道路工事中なのか、道幅いっぱいの大型ダンプも走行。
カーブミラーのところにあったしるべ石。
「奧武丈瀧道 是より瀧迄八町余」
奧武丈瀧とは、津越の滝のことです。
隣の看板は、市之川鉱山跡への案内図。
あ、アンチモン?
博物館が堀之内にあった頃、見たぞ。
クルマで約15分かぁ、行ってみようかな。
⑨三叉路からすぐの距離で、八堂山登山口に到着。
「でも…。」
行っちゃおう! 鉱山跡へ!
⑩こんな感じで、鉱山跡のある市之川まで狭い道でした。
路肩注意、落石注意、対向車注意な道でした。
おまけに、こんな道で大型ダンプ(2台)と2度もすれ違いました。
さっきも書いたけど、市之川のもっと奥の方で、道路工事でもしてるのかな。
スクーターは路肩に避ければすれ違えるけど、
クルマだとどっちかがバックしないと絶対ムリぽ。
⑪加茂川沿いの奧武丈瀧道から、市之川に沿って遡る道へ。
このフェンスの向こう側は-
松山自動車道。
加茂川に沿ってカーブしてきた道が、
八堂山下の八堂山トンネルに吸い込まれるところ。
⑫写真のY字路は右の道へ。
左の道は川沿いの集落へ行っちゃいますので。
でも、案内看板の「↓下道」は、「下に行く道」。
市之川谷橋を渡り、左下に市之川を見つつ、奧へ、奧へ。
この辺りから、また人家や田畑が点在してます。
⑬で、また、人の気配がなくなって-
⑭ここは、⑫と逆に右斜め後ろに山向いて上る道がある分岐。
山の上にある集落への生活道です。
鉱山跡はそのまま直進-
「←市之川公民館」の方へ進みます。
ここには書いてないけど、鉱山跡は公民館のそばにあります。
いつのまにか、河床から高いところを走ってます。
谷の奥に、黒森山の手前にある「かたぶき」が見えてました。
⑮またY字路。
よく見ると、左に道の端に「市之川地区公民館入口」。
なぜか、市之川鉱山跡とは書かれてないんだけど、
この左の下り坂へと入ります。
すると、左下に赤い屋根の公民館、として再利用してる、
昭和55年に閉校した市之川小学校だった建物が見えて-
⑯そのグラウンドへ降り着きます。
グラウンドの少し手前、右にある小径が鉱山跡への道ですが、
鉱山跡へ行く前に、公民館とか訪ねてみます。
グラウンドへ降りた突き当たりに、
市之川小学校、中学校跡と彫られた石柱と公民館の案内も。
市之川公民館のご案内 |
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1 |
場所 愛媛県西条市市之川6678-1 |
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2 |
位置 北緯33度53分15秒 東経133度13分4秒 海抜160メートル |
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3 |
当館が設置されているこの場所は、元市之川小学校(昭和55年閉校)の跡地です。 |
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4 |
当館には、かつて世界一のアンチモン鉱山であった市之川鉱山に関する資料室があります。 |
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5 |
当館の開館は火・木・日曜日です。 |
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6 |
開館日にも公民館業務で施設を留守にすることがあります。 |
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グラウンドを通って公民館へ。
あ、グラウンドが痛むので、クルマで入っちゃダメだって、
上記案内の横に注意書きがありましたので、一応。
川の方のフェンスにある文字は-
「アンチモンの里」
⑰公民館。
渡り廊下で左右の建物が繋がった形。
掃除も行き届いていて、植栽も小ぎれいに整えられています。
鉱山の資料館はどっちかな?
と、その前に、左の壁の看板を-
岩石の分類 |
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左の建物は事務室だそう。
で、でも、残念、休館日じゃった (>_<)
あ、開館日については、上記「市之川公民館のご案内」を。
右の建物が資料館のようでした。
見たかったなぁ…。
⑯グラウンド入口に戻りまして-
「市之川公民館のご案内」看板の右の方に石碑が立ってます。
「伊藤武平翁頌功碑」とな。
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翁は文久3年2月大生院村市之川組頭喜平次の三男として生まれる。 |
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平成2年7月 市之川地区公民館記 |
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石碑の奧の木陰に石の祭壇があります。
「白目」はこの辺の地名ですが、実はアンチモンの古い日本名で、
『続日本紀』に伊予から天皇に献上された「伊予白目」が登場します。
狛犬コレクション、吽と-
阿。
では、今度こそ、鉱山跡を訪ねます。
グラウンド手前の小径を入ります。
「
山側に古い石積みが残る木陰の道を100mほど歩いて行くと-
⑱わっと視界が開けて、市之川のほとりに出ました。
さて、坑口はどこ?と、目を皿にして探したら、
草むらにありました。
半円形の穴、千荷坑口です。
でも、どうやって近づけばいいのか…。
草むらをわさわさ行くか、岩場を降りて回り込めます。
以前、対岸に渡れる橋があったのですが、
2011年の集中豪雨災害で流出しちゃった。
で、正面、当然ですが、坑口は塞がれてます。
石積みとアーチな感じがクラシック~。
右に「市之川
左に「明治
彫られてます。
市之川の水量が乏しかったので、
対岸にもちょちょちょいっと渡れました。
カーブした河床から見上げると岩盤が露頭してました。
ここいら一体の岩盤が「市之川礫岩」かな。
こっちはさらに上流方向。
もちっと歩いて行けそう。
対岸から見た坑口。
坑内の水の排水溝かな、岩盤に切り込みがありました。
下流方向。
エメラルドグリーンの淵がありました。
ひとりごと | ||
本題(お山)に入る前の寄り道だけで、大変な情報量になってしまった… (^^;) こんなところで、関中佐に出会えるとは思ってもいませんでした。 『永遠の0』については、映画化もされ、大ヒットしたので、ご存じの方も多いと思います。 特攻=特別攻撃についての話が何度も登場する『永遠の0』。 さて、関行男の慰霊碑がなぜ、西条にあるんだろう?と不思議でしたが、西条の出身だったんですね。 このような哀しい事実も僕はつい最近まで知りませんでした。 母親が望んだ関行男のお墓は、四国中央市の村松大師に建てられています。 ほんのわずかの間、関の妻だった女性は戦後、再婚しました。 個人的なことですが、関行男の母親は僕の祖母と同じ名前でした、驚きました。 五軍神のなかにもう一人、愛媛県出身者がいます、それは、大黒繁男です。 さて、関行男ら五軍神の慰霊碑、爆弾をかたどった慰霊碑や石碑の脇の爆弾の模型。 アメリカ同時多発テロ、9.11のとき、アメリカのメディアはテロリストたちの攻撃を「カミカゼ・アタック」と称しました。 少々、熱くなってしまいました、すみません。 さて、話を変えます、市之川鉱山について、です。 『続日本紀』の文武天皇2年(698)に「乙亥。伊予国献白錫。」とあります。
曽我部親信は、千荷坑・処後坑・大鋪坑・本番坑などを次々と開発し、一時的には成功しました。 市之川鉱山の輝安鉱は、子供の頃、堀之内にあった県立博物館で見たことがあります。 県立博物館所蔵の市之川鉱山産の輝安鉱。 千荷口のほかに近隣には坑口がたくさんあったようです。 鉱山周辺の地図 近くにはズリと呼ばれる採鉱時の不要な岩石が捨てられているところがあるそう。 鉱山の最盛期には、周辺には100戸を越える民家が建ち並び、小学校には160人を越える児童が通っていたそうです。 と云うわけで、市之川鉱山跡も見られたので、引き返し、八堂山へ向かいました。 |
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