八堂山へ行こう!
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楢本神社と市之川鉱山跡
一般道
徒歩
下記写真の場所

西条市、国道11号線。
加茂川にかかる加茂川橋のたもとからスタート。
瓶ヶ森林道やら笹ヶ峰とか行くときは橋の手前を右折して、
194号線に入ったりする交差点です。
目指す八堂山は川向こうにあるので、
車線に気をつけて橋を直進します。

橋の途中にある「だんじり」の模型。
秋祭りでは、奧の河原に沢山のだんじりが集結、渡御します。
目指す八堂山は、白いアーチの水道橋の奧に見えてます。



  

徒歩道の登山口は加茂川沿いにあるため、橋を渡ってすぐの-

土手沿いの道へと右折します。

右折した際、その交差点で、
「五軍神慰霊碑」と書かれた看板が目に入りました。
「神風特別攻撃隊敷島隊」については、
小説「永遠の0」を読み知っていました。
国道11号線の加茂川橋はもう何度も渡ったことがあったのに、
今日の今日まで気づかなかった。
興味がないとことは、目にも入らないものなのかな。
取りあえず、お山歩前に訪ねてみることにしました。



  

白いアーチの水道橋の手前を左に降ります。



  

坂を下って水道橋の橋脚の手前を左折すると、橋脚の裏に-

とても立派な忠霊塔が立っていました。

忠霊塔の隣の石碑は西条出身の力士「高砂浦五郎」の記念碑。
明治から大正にかけて活躍、四股名は「朝潮太郎」。

「忠霊塔」は、明治以降の戦没将兵を慰霊する施設です。
「五軍神慰霊碑」はこちらではありません。

狛犬コレクション、犬っぽい、吽と-

阿、最近(平成19年)、新しいものに作り替えされたようです。



忠霊塔の前の芝生の広場に沿って進み出た広い通りに、
鳥居が立ち並んでいました。
左の鳥居が西條神社。
右の大きな木の下にある鳥居が「五軍神慰霊碑」のある楢本神社です。
この通りは、写真左の石碑にある通り、秋10月の西条祭りの際、
だんじりや御神輿が集結する「お旅所(お神輿の休憩場所)」なので、
広く余地がとられているのでした。
真夜中に山車を取り巻く無数の提灯が揺らめいて、
それはそれは美しく幻想的な光景になるそうですよ。

入道雲のように聳える高い木がある、楢本神社。

入口の石碑には「西條発祥地 西條荘守護神」と。

境内主要建造物

一、関行男慰霊碑

大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長 関行男中佐の慰霊碑を建立し 昭和50年3月21日 元航空幕僚長 源田実参議院議員により除幕。

一、真鍋嘉一郎誕生の家

東大医学部に物理療法学の講座を開設し 初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を 昭和53年8月に復元して記念館とす。

一、大東亜戦争特攻記念館

全国各地の同志の奉賛を得て 昭和54年10月25日に建設を終り 開館す。

一、神風特攻第一號敷島隊
五軍神祀碑建立

第1番機

海軍中佐

関行男

愛媛県西条市出身

行年23才

第2番機

海軍少尉

中野磐雄

福島県原町市出身

行年19才

第3番機

海軍少尉

谷暢夫

京都府舞鶴市出身

行年20才

第4番機

海軍飛行兵曹長

永峰肇

宮崎県宮崎市出身

行年19才

第5番機

海軍飛行兵曹長

大黒繁男

愛媛県新居浜市出身

行年20才

昭和56年10月25日全国の有志諸賢奉賛により 五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて 敵艦に突入の 250キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、19才、20才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ 大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ(よすが)とせり。

 

日本が世界に誇る神風の 祀碑竝び建つ四国西条

楢本神社のしるべ

一、鎮座地

一、鎮座地 西条市大町1,138番地

一、御祭神

大国魂神外三柱

一、祭日

春 4月7日 秋 10月15日
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 10月25日

一、由緒と沿革

西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが 詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。

一、産子(うぶこ)と崇敬者

産子 大町郷3500戸
崇敬者 北海道より沖縄までの全国各地に散在す。

一、社宝

神宝貝正則作 短刀一振
神宝蝮封じ石 二個

一、境内坪数

500余坪

鳥居の左の慰霊碑が、
最初の神風特別特攻隊隊員5名を祀った「五軍神慰霊碑」です。

零戦が装着していた250キロ爆弾を模した石碑が、
戦闘隊形順に立ち並んでいます。

石碑だけでなく、遺品も埋めてあるんですね。

中央の石碑が敷島隊隊長 関行男の慰霊碑。
関中佐は西条出身でした。

左に、中野磐雄少尉、永峰肇飛曹長。

右に、谷暢夫少尉、大黒飛曹長。

裏から。
人間爆弾というイメージからか、
中央の碑の足下に爆弾の模型も置かれています。
個人的には、なんで爆弾?って感じでした。
結果的に人間爆弾となってしまっただけで、
彼らは最後の最後まで零戦の搭乗員であったはず。
造形にこだわるなら、
零戦にちなんだ形が最適だったのでは?
と思うのは僕だけかなぁ。

 人類6千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。
「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。
この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当らないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は、国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意思に基いて、絶対生きて還ることない攻撃に赴いた事実は、眞にわが武士道の精髄であり、忠烈萬世に燦たるものがある。
 神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和19年10月20日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。
この攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、3機は至近弾となって敵艦を損傷した。
中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(1万400屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉攻を奏した
 関行男大尉がその教へ子に残した辞世は
  教へ子は散れ山桜 かくの如くに    元航空幕僚長 参議院議員 源田實 撰文
 昭和19年10月25日 於比島スルアン島沖合にて戦死

昭和50年3月 西条海軍会建之

慰霊碑の左には、艦上型鉄製マストが立っています。

狛犬コレクション、吽と-

阿。

阿形の後ろにまた爆弾…。

こちらは、戦艦三笠の主砲砲弾。
戦艦三笠は戦後、横須賀の三笠公園に係留、
記念艦館として保存されてます。
僕も一度、見学乗船したことがあります。

この砲弾は明治38年5月27日日本海々戦において、聯合艦隊旗艦として東郷平八郎海軍大将が坐乗され、ロシアのバルチック艦隊を撃滅して世界戦史に赫々たる偉功を奏した戦艦三笠に装備されたものである。
戦艦三笠は大正15年老朽化により廃艦となり、この搭載物件処理当時舞鶴海軍々需部長の当市出身鈴木秀次海軍大佐の配慮により、帝国在郷軍人会新居郡聯合分会石川梅蔵海軍部長の要請に応えて佛下げられ市内禎瑞嘉母神社に奉献されたものを、このたび同神社氏子中より楢本神社境内へ搬入されたものである。

戦艦三笠主砲々弾

型式 40口径30糎砲徹甲弾
全長 0.95メートル 重量 410キログラム
初速 600メートル/秒 最大射程 12,000メートル

戦艦三笠の要目
排水量 15,100トン
主機械 15,000馬力
速力 18ノット
全長 132メートル
巾 23メートル
吃水 8メートル

こちらは、戦艦大和主砲砲弾で、
「大東亜戦争 特攻将兵慰霊の塔」です。
側面には「青春の譜」も。

この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。
当時においては世界にその比を見ない大きなもので、おそらく将来もかゝる大きな砲弾は生れないであろう。
この砲弾を発射し得る大砲、遠距離に飛ばす火薬、これを命中させる指揮装置、砲弾自体に装甲版を貫く形状と材質がある、従って旧海軍が到達した用兵技術の極地がこの一発の砲弾に示されている。
この砲弾は国家の至宝ともいうべきもので呉地方総監香取頴男海将の肝煎りにより中国火薬(株)社長神津幸直から往時の日本海軍の偉容をしのびつゝ日本国護持のため悠久の大義に殉じた軍神関中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため奉献されたものである。

戦艦大和主砲々弾

型式 九四式45口径46糎砲九一式徹甲弾
全長 1.95メートル 重量 1,470キログラム
さく薬量 34キログラム 装薬量 330キログラム
初速 780メートル/秒 最大射程 42,000メートル

戦艦大和の要目
排水量 64,000トン
主機械 150,000馬力
速力 27ノット
全長 256メートル
巾 36.9メートル
吃水 10.4メートル

青春の譜

戦艦大和は大東亜戦争末期残存せる大日本帝国海軍のもう艨艟を率い沖縄方面に特攻出撃の途次昭和20年4月7日鹿児島県徳之島西方海上に於て敵の潜水艦と航空軍グラマンと反復攻撃により世界最大を誇る不沈戦艦も乗員3千余名と共に運命を共にせり。
この台座に屹立の砲弾は大和の主砲々弾にして呉市の神津幸直氏から軍神関中佐の霊前に献備されたが此のたび源田実先生始め全国の方々の御尽力により境内に特攻記念館落成を記念し本弾を大東亜戦争特攻戦没慰霊弾塔とし弾中にこの方々の霊魂を安鎮して毎年8月15日終戦記念日を祭日と定めて慰霊祭を斎行することとなれり。
本企画は西条海軍会一同の総意に基きこれを機として昭和48年5月27日本会発足以来会員諸君が諸事業に協賛せしを記念し本碑落成に当り軍籍に在りし当時の青春の思い出に勤務の尤も印象に残る艦艇隊名を刻み国家悠久の大義に殉じられし戦没将兵を慰霊する行事が後世子孫に伝承される事を祈念するものである。

昭和55年8月15日
西条海軍会
楢本神社宮司 西条海軍会長 石川梅蔵

「五軍神慰霊碑」の後ろに立つ関中佐の顕彰碑。

関行男は西条市栄町下組関勝太郎の長男、大正10年8月生誕す。
幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ、昭和9年3月大町小学校卒業次で県立西条中学校へ入学。
昭和13年2月江田島海軍兵学校(第70期生)へ入学し帝國海軍軍人としての宿望を果たすと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大尉に任官す。
大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊々長として出撃し、皇国悠久の大義に殉ず。
豊田連合艦隊司令長官は、忠烈万世に燦たる関の殊勲を全軍に布告し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す。
西条市の旧海軍々人をもって組織する海軍会の有志相議りて、遺族無き軍神、関行男の慰霊碑を建立し、源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す。
自今、毎年10月25日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花供饌して霊魂安眠の礼を執り行なって遇す。
依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを。

昭和50年3月21日
楢本神社宮司 西条市海軍会会長 石川梅蔵

関中佐功績顕彰の歌

栗田友市 作詞 根本邦雄 作曲

1 武丈の桜精うけて 大和心の敷島隊 吹けよ神風 花吹雪 散りて尊き軍神
2 必死必中 敵艦に あ々壮烈の体当たり 鬼神もさくる特攻の 先陣切りし 関中佐
3 見送る基地に手を上げて こたふ間もなく雲の上 生も死もなき心境に 取る零戦の舵かるし
4 スルアン近く敵の艦 忽ち覆う弾幕に ニッコリ笑って振る翼 我につづけと急降下
5 五つの肉弾轟然と あげる火柱水煙 いさおも高き忠烈に いや輝かん万世に
6 大君の為 神風は 翼つらねて今日も行く 中佐の霊が故郷の 我等に何をもと求むらん

境内の右側にある家屋は、眞鍋嘉一郎の生家を移築したもの。
物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者です。

産湯に使っただろう井戸も復元されてます。

舌代

稀代の大英才、眞鍋嘉一郎先生は、この小さな家で明治11年8月8日に誕生し、松山中学に入学の15才まで起居されました。
先生は貧困を克服して学業に精励され、小学校より東京大学医科大学まで一貫して首席で卒業されました。
大正3年ドイツ留学より帰朝され、同15年東大に内科物理療法学講座を創設し、その初代教授となられました。
先生の生誕百年を期して生家を移築保存し、遺品を展示して記念館としています。

こちらが拝殿、2礼2拍手1礼…。

拝殿の後ろに「神風特攻記念館」もありました。
無人だったので、見学できませんでした。

誰かいないかな、と本殿の裏に回ったら- 

取り外された口上を見つけました。

舌代

 

神風特攻敷島隊関隊長、中野、谷、永峰、大黒の五軍神奉斎の慰霊碑に御参拝下さって有難うございます。
 関隊長と二番機中野少尉には遺族がございません。
 世界最初の公式人間爆弾、五軍神に一枝の榊、一輪の花を献じて頂きたくお願いいたします。

関隊長には遺族がひとりもいないのかぁ…。

拝殿の左にあるのが「蝮石」と書いて“はみいし”。
ハミ=ハメ=マムシのこと、
ヘビちょろが苦手な人は拝んでおくといいかも。

神宝 霊石 蝮石(はみいし)の由来

 天保年間編述の西条誌巻三 大町村の項に左の如し記載しあり

八ヶ塔の用水 井手の端にあり 長さ3尺余、幅2尺位もあるべし、二つありて一つは少し小さし、当村むかしは(はみ)(くわ)ははるもの少なからざりしを楢本明神 この石の下え封じこめ玉い、その後(はみ) 出る事なく、患いやむとあり。

以下略

お隣の西條神社も参拝しました。

しょう運の神 市民の社 とうしょうはん 西條神社

徳川家康公と東照宮

 長く続いた戦乱を治め、天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康公は、慶長10年(1605)将軍の座を二代秀忠に譲った後も、大御所として駿府にあり、影響力を持っていました。
長き辛苦を乗り越え、築いた平和を護ることを深く考え、天下泰平、国土安穏、五穀豊饒、萬民快楽を祈り、後世に言葉を遺しました。
 その内容は、「余を駿河国久能山に納め、一年が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」そして神に祀られることによって「八州の鎮守となろう」というものでした。
 元和2年(1616)4月17日、家康公は駿府城で75歳の生涯を閉じました。
翌年、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、日光山に社殿が造営されました。
これが日光東照宮です。
家康公の言葉どおり、神として祀られたのです。
 家康公が目指した「八州の鎮守」とは、現代風に言えば「日本全土の平和の守り神」です。
日光は江戸のほぼ真北にあたります。
家康公は不動の北極星の位置から幕府の安泰と日本の平和を護ろうとしたのです。
 東照宮とは、徳川家康公すなわち東照大権現を御祭神として祀る神社のことです。
現在、愛媛県下に勧請された東照宮は、当神社を含め六社のみです。

西條神社解説

 当神社は、松平頼純公が寛文10年に市内西田二並山に創建した東照宮を合祀して、明治5年現在地に創建されました。
明治6年大町村社、同16年西條東照宮の名を西條神社に改称、同17年郷社となり、同27年県社に列格されました。
(『西條誌』『新居郡誌』)
 戦後の混乱の影響で、一時伊曽乃神社の摂社となっていましたが、昭和58年再び独立した宗教法人として、西条市の開拓、発展に貢献した人々をお祀りする神社として、その伝統を復活するに至りました。
 家康公とならび当神社の御祭神である西條松平諸公は、紀伊徳川家の分脈で、家康公の御孫の系譜に当たり、よくその「御遺訓」を守り、西條藩主として、10代二百年の間、宇摩、新居、周桑郡の村浦に仁慈の政治を敷かれました。
民生安定を計り土地開発や産業、文教の振興に意を用い、近代西条地方の発展の基礎をつちかわれた方々です。
 社殿境内は城郭に模しています。
紋入り銅瓦の欅門は精緻な建造物として有名です。
文の神、武の神、勝運の神として崇敬を篤くし、また、「とうしょうはん」(西條東照宮)の呼び名で、市民の多くに親しみを持たれております。

平成16年4月奉献 春秋会

境内には、山盛りの落ち葉から立ち上る煙がもくもくもく。

拝殿の右にある「鶴亀石」、乗ると願い事が叶うそう (^_^)

左には乃木将軍の家から持ち帰ったウメがありました。



  

参拝を終え、再び、加茂川の土手道を走ります。
梅雨前だし、お天気続きだったから、加茂川の水は少なめでした。



道幅が狭くなったところからサクラ並木。
ここは「武丈公園」、サクラの名所です。

  

歩行者専用橋の伊曽の橋から武丈公園、八堂山山麓へと、
四国のみちが通っているようです。

サクラが実を付けてました、食用ではないかな。

  

「武丈公園周辺観光案内図」

西条市名水・名木50選 武丈のさくら

 愛媛県下でも有数の桜の名所となっている武丈。
 約百種、千五百本の桜並木は、春になると加茂川堤にいくつもの花のアーチを作り出します。
 天保年間に、加藤定右衛門(俳号武丈)という風流な歌人がいて、ここの風景をこよなく愛し、付近にたくさんの桜を植え、風月を友として一生を送ったと伝えられています。
 人々はここの桜を定右衛門の俳号をとって武丈桜と呼んだことから、当地の地名となったということです。

平成三年三月選定



  

サクラ並木は200mほどで終了し、三叉路に。
そのまま、川沿いを直進し、八堂山の麓へ。

八堂山の山裾の道は1.5車線の狭い道。
道の奧で道路工事中なのか、道幅いっぱいの大型ダンプも走行。

カーブミラーのところにあったしるべ石。
「奧武丈瀧道 是より瀧迄八町余」
奧武丈瀧とは、津越の滝のことです。

  

隣の看板は、市之川鉱山跡への案内図。
あ、アンチモン?
博物館が堀之内にあった頃、見たぞ。
クルマで約15分かぁ、行ってみようかな。



  

三叉路からすぐの距離で、八堂山登山口に到着。
「でも…。」
行っちゃおう! 鉱山跡へ!



こんな感じで、鉱山跡のある市之川まで狭い道でした。
路肩注意、落石注意、対向車注意な道でした。
おまけに、こんな道で大型ダンプ(2台)と2度もすれ違いました。
さっきも書いたけど、市之川のもっと奥の方で、道路工事でもしてるのかな。
スクーターは路肩に避ければすれ違えるけど、
クルマだとどっちかがバックしないと絶対ムリぽ。



加茂川沿いの奧武丈瀧道から、市之川に沿って遡る道へ。
このフェンスの向こう側は-

松山自動車道。
加茂川に沿ってカーブしてきた道が、
八堂山下の八堂山トンネルに吸い込まれるところ。



  

写真のY字路は右の道へ。
左の道は川沿いの集落へ行っちゃいますので。

でも、案内看板の「↓下道」は、「下に行く道」。

市之川谷橋を渡り、左下に市之川を見つつ、奧へ、奧へ。
この辺りから、また人家や田畑が点在してます。



で、また、人の気配がなくなって-



ここは、と逆に右斜め後ろに山向いて上る道がある分岐。
山の上にある集落への生活道です。
鉱山跡はそのまま直進-

「←市之川公民館」の方へ進みます。
ここには書いてないけど、鉱山跡は公民館のそばにあります。

いつのまにか、河床から高いところを走ってます。
谷の奥に、黒森山の手前にある「かたぶき」が見えてました。



  

またY字路。
よく見ると、左に道の端に「市之川地区公民館入口」。
なぜか、市之川鉱山跡とは書かれてないんだけど、
この左の下り坂へと入ります。

すると、左下に赤い屋根の公民館、として再利用してる、
昭和55年に閉校した市之川小学校だった建物が見えて-



そのグラウンドへ降り着きます。

  

グラウンドの少し手前、右にある小径が鉱山跡への道ですが、
鉱山跡へ行く前に、公民館とか訪ねてみます。
グラウンドへ降りた突き当たりに、
市之川小学校、中学校跡と彫られた石柱と公民館の案内も。

市之川公民館のご案内

1 

場所 愛媛県西条市市之川6678-1

2 

位置 北緯33度53分15秒 東経133度13分4秒 海抜160メートル

3 

当館が設置されているこの場所は、元市之川小学校(昭和55年閉校)の跡地です。

4 

当館には、かつて世界一のアンチモン鉱山であった市之川鉱山に関する資料室があります。
資料室には、鉱山で使用されていた道具類のほか、輝安鉱(アンチモンという金属を含む鉱石)の標本や写真、歴史資料などが保管されています。
資料をご覧になられる方は、事務室まで申し出てください。

5 

当館の開館は火・木・日曜日です。
ただし、祝日、年末年始(12月29日~1月3日)は休館となります。

6 

開館日にも公民館業務で施設を留守にすることがあります。
施設をご利用の際には、事前に電話でご連絡をお願いします。
 【問い合わせ先】
*市之川公民館 TEL・FAX 0897-56-3300
*西条市役所 TEL(代表)O897-56-5151

グラウンドを通って公民館へ。
あ、グラウンドが痛むので、クルマで入っちゃダメだって、
上記案内の横に注意書きがありましたので、一応。
川の方のフェンスにある文字は-

「アンチモンの里」



公民館。
渡り廊下で左右の建物が繋がった形。
掃除も行き届いていて、植栽も小ぎれいに整えられています。
鉱山の資料館はどっちかな?
と、その前に、左の壁の看板を-

岩石の分類

種類

できかた

主な岩石

火成岩
マグマがひえてかたまったもの

深成岩

地中の深い所でゆっくりと

花崗岩 閃緑岩 斑れい岩 かんらん岩 蛇紋岩

半深成岩

地下の浅い所で


石英斑岩 玢岩 輝緑岩

火山岩

火山から地上にふき出したり、地表の近くで急にひえて

流紋岩 安山岩 玄武岩 火山噴出物(熔岩・軽石・黒曜石・火山弾)

堆積岩
湖や海の底につみかさなって長い間にかたまったもの

・砂や小石が
・生物の死がいが
・火山からふき出したものが

・泥岩 粘板岩 頁岩 砂岩 礫岩
・石灰岩 苦灰岩 チャート
・凝灰岩 集塊岩 大谷石

変成岩
地中で別の石にかわったもの

・地かくの中におこる大きな圧力から
・熱によって

・黒雲母片麻岩 眼球片麻岩 角閃岩 紅れん片岩 緑れん片岩 黒雲母片岩 緑泥片岩 滑石片岩 石墨片岩 石墨絹雲母片岩 緑泥絹雲母片岩
・ホルンフェルス 結晶質石灰岩(大理石)

左の建物は事務室だそう。
で、でも、残念、休館日じゃった (>_<)
あ、開館日については、上記「市之川公民館のご案内」を。

右の建物が資料館のようでした。
見たかったなぁ…。

グラウンド入口に戻りまして-

「市之川公民館のご案内」看板の右の方に石碑が立ってます。

「伊藤武平翁頌功碑」とな。

伊藤武平翁(いとうぶへいおう)

 翁は文久3年2月大生院村市之川組頭喜平次の三男として生まれる。
若い時兵庫県の鉱山で修行。
後伊藤甚太郎の招きで市之川に帰り当時の所長、牧相信(まきそうしん)(帝大での工学士)の指導を受けて鉱山のことを学ぶ。
牧所長が請われて別子銅山へ移ったとき(明治39年別子の大改革を断行)誘われたが無学の故を以って断る。
以後死ぬまで約30年間市之川鉱山の責任者として採鉱にあたる。
大盛坑(だいせいこう)開発に功があった。
 翁は性温厚篤実、多くの人に慕われた。
昭和9年1月没。
享年72歳。

平成2年7月 市之川地区公民館記

石碑の奧の木陰に石の祭壇があります。
白目山(しろめやま)神社、通称・お山神(さんじん)さんです。

「白目」はこの辺の地名ですが、実はアンチモンの古い日本名で、
『続日本紀』に伊予から天皇に献上された「伊予白目」が登場します。

狛犬コレクション、吽と-

阿。

では、今度こそ、鉱山跡を訪ねます。
グラウンド手前の小径を入ります。

千荷(せんが)坑口 市之川礫岩 →」この看板が目印。
山側に古い石積みが残る木陰の道を100mほど歩いて行くと-



  

わっと視界が開けて、市之川のほとりに出ました。
さて、坑口はどこ?と、目を皿にして探したら、
草むらにありました。

半円形の穴、千荷坑口です。
でも、どうやって近づけばいいのか…。

  

草むらをわさわさ行くか、岩場を降りて回り込めます。
以前、対岸に渡れる橋があったのですが、
2011年の集中豪雨災害で流出しちゃった。

で、正面、当然ですが、坑口は塞がれてます。
石積みとアーチな感じがクラシック~。

右に「市之川共仝(きょうどう)鑛山」、
左に「明治廿三(23)年一月」
彫られてます。

市之川の水量が乏しかったので、
対岸にもちょちょちょいっと渡れました。

カーブした河床から見上げると岩盤が露頭してました。
ここいら一体の岩盤が「市之川礫岩」かな。

こっちはさらに上流方向。
もちっと歩いて行けそう。

対岸から見た坑口。
坑内の水の排水溝かな、岩盤に切り込みがありました。

下流方向。
エメラルドグリーンの淵がありました。

ひとりごと

本題(お山)に入る前の寄り道だけで、大変な情報量になってしまった… (^^;)
写真のキャプション部分は読みやすいよう、だいぶ端折ってるんだけど。

こんなところで、関中佐に出会えるとは思ってもいませんでした。
神風特攻隊の慰霊碑はよく見かけるので、当初はその類いのものかと思っていました。
楢本神社の面前に立って慰霊碑の「関行男」の文字を見た瞬間、ハッとしました。
と云うのも、昨年夏に読んで感動しまくった小説『永遠の0』に彼の名前が何度も登場していたからです。

『永遠の0』については、映画化もされ、大ヒットしたので、ご存じの方も多いと思います。
第2次世界大戦中、零戦の腕利きのパイロットだった主人公がなぜ、海軍一の臆病者と言われていたのか?
そんな彼がなぜ、特攻に志願したのか?
真珠湾から南方へと転戦した彼を知るパイロット、戦友たちの証言を元に描かれる、感動大作です。
初めて読んだのは、青春18きっぷで東京・長野へ電車旅をしたとき。
600ページにも及ぶ大作なので、旅行の友にちょうどいいや、と買っていった本。
余りに面白く感動の連続で、車窓の展望もそこそこに、旅半ばで一気に読み切ってしまいました。
山手線の車内で読んでたとき、周りは人だらけなのに涙があふれそうになってしまったこともあったくらい。
いまでもそのページを読むとぐっときてしまう感動の場面!
小説の世界に入り込んじゃってました。
涙を流すくらい感動したせいで、心が開けたのでしょう、旅のほうも感動の連続でした。

特攻=特別攻撃についての話が何度も登場する『永遠の0』。
最初の神風特攻隊、敷島隊についても詳しく描かれています。
ちなみに、敷島隊の「敷島」は、江戸時代の国学者・本居宣長が詠んだ和歌から。
「しきしまのやまと心を人とはば、朝日ににほふ山ざくらばな」
ほかに大和隊、朝日隊、山桜隊と命名されました。
また、「神風」は当初、“しんぷう”と読まれていましたが、いつしか“かみかぜ”に変わって行きました。
敗戦に敗戦を重ねる日本軍がたどり着いた特攻は、歴戦の空の強者たちを大勢死地に追いやりました。
戦闘機の数も足らず、爆弾を抱えた戦闘機で敵艦に体当たりする単機決戦でしか戦果を得られないと判断した軍上層部。
死地から最も遠いところにいた彼らが立案決定した、十死零生の作戦でした。
史上初の特別攻撃隊・敷島隊を率いたのが、関行男大尉(戦死後2階級特進で中佐)。
4度目の出撃で敷島隊5機全機、体当たりに成功。
「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。」
そう語っていた関は、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローの飛行甲板に突入し、沈没せしめました。
腕利きのパイロットだった関らの命がけの華々しい成果は、けれど、結果的には裏目に出てしまいます。
当初、特攻は米軍のレイテ上陸を阻止する捷一号作戦の一部でした。
軍上層部は成果を誇大に重要視します。
ろくな訓練も経ていない予科練習生や飛行予備学生らでも戦果をあげられる体当たり攻撃は有効であると。
神風特攻隊を拡大しました。
米艦隊は当初、まさかの体当たり攻撃には、当初、為す術もありませんでした。
けれど、すぐに守りを強化、最先端の兵器になりつつあったレーダーも活用します。
何十機もの戦闘機で待ち伏せし、迎え撃ちました。
一方、ゼロ戦はほぼ体当たり攻撃に必要な飛行訓練しか受けてこなかった若い搭乗員たちが操っています。
標的に到達する前にほとんどが撃ち落とされました。
戦艦に近づけたとしても、隙間のない弾幕にほとんどが絡め取られてしまいました。
特攻が成功したのは最初の頃だけと云ってもいい惨々な状態でした。
(このことは、『永遠の0』を読むまで知らなくて、ショックでした。)
特攻は終戦直前まで継続され、2500人もの若者の命が失われました。
と同時に、貴重な戦闘機も同じ数だけ、海に沈みました。
神風特攻と並行して、人間魚雷の「回天」や、人間爆弾「桜花」など、まさに人でなしな特攻兵器も実戦投入されています。

さて、関行男の慰霊碑がなぜ、西条にあるんだろう?と不思議でしたが、西条の出身だったんですね。
知らなかったので、とても驚きました。
新婚5ヶ月目、わずか23歳で亡くなった関行男は、特攻後、軍神に祭り上げられました。
軍神とは、壮烈な戦死を遂げて神格化された軍人。
こういったプロパガンダは、どこの国の軍隊も多かれ少なかれやっています。
けれど、国民の目が一斉に逆方向に向いた瞬間、その存在は憎悪の対象となることがあります。
終戦を迎え、軍神は戦争犯罪人へと人々の認識が一転します。
すると、残された家族は村八分同然の扱いを受けました。
戦中、日本国民全員が、万歳三唱して若者たちを戦場へ送り出していたくせに、手のひらを返す大人たち。
軍神の遺族らを目の敵のように扱ったそうです。
関行男は、母ひとり子ひとりの境遇でした。
戦後、関の母親は日々の生活にも困る有様でした。
物置部屋に寝泊まりし、草餅を作って売り歩いたり、日雇いの仕事でやっとの生活だったそうです。
なのに、よからぬ噂をする人もいたようです。
関は実は生きていて山中に隠れ住んでいるとか、母親は恩給をたっぷりもらってるんだろうとか。
その後、知人の紹介で石鎚村の中学校の用務員となり、掃除から給食の炊事まで、とてもよく働いたそうです。
朝礼であの関行男の母親だと紹介された中学校の生徒たちは、関のおばさんは日本一の用務員さんと誇りにしていたそうです。
そして、やっと、軍人恩給の支給が国で決まった矢先、買い物中に店先で倒れ、帰らぬ人となりました。
息子の墓を建てることを最後まで望んでいましたが、世間はそれを許しませんでした。
遺族にはなんの罪もないというのに…。
大切な家族を失った悲しみは、みな同じだというのに…。

このような哀しい事実も僕はつい最近まで知りませんでした。

母親が望んだ関行男のお墓は、四国中央市の村松大師に建てられています。
特攻で亡くなってから10年も経った後のことでした。
いつか、お参りに行こう。

ほんのわずかの間、関の妻だった女性は戦後、再婚しました。
それは、関の母親の望みだったそうで、「再婚して新しい人生を歩めばいい」と実家に帰らせたようです。

個人的なことですが、関行男の母親は僕の祖母と同じ名前でした、驚きました。

五軍神のなかにもう一人、愛媛県出身者がいます、それは、大黒繁男です。
現四国中央市、川之江東ICから徳島県境にかけての地域にかつてあった川滝村出身です。
敷島隊の5番機として出撃し、戦死しました。
最近、NHKで彼を主人公としたドキュメント&ドラマがオンエアーされました。
彼の墓もまた、手のひら返しの世の中で出身地の川滝では戦争協力者の墓を建立するわけにはいかないと反対されました。
彼が育った新居浜市内に建てられたそうです。

さて、関行男ら五軍神の慰霊碑、爆弾をかたどった慰霊碑や石碑の脇の爆弾の模型。
僕には正直、受け入れがたいデザインでした。
どうして爆弾をモチーフに…、なんてセンスがないんだ…と。
零戦の胴体に250キロ爆弾を装着して敵艦に体当たりした彼らの行為は、人間爆弾だと云われても仕方ない攻撃でした。
けれど、彼らは最後の最後まで零戦の搭乗員として逝ったのではないでしょうか。
十死零生の作成の成功は250キロ爆弾ではなく、ひとえに彼らの卓越した操縦技術なくしては成り立たないものだったから。
僕だったら、絶対、お墓に爆弾は供えて欲しくない。
零戦をモチーフにしたデザインにしてよって、思っちゃう。
文字通りの人間爆弾「桜花」で亡くなった特攻隊員もそう。
亡くなった後まで爆弾の形の石碑を建てられたら、それは逆に、嫌みでしかないと思う。
この慰霊碑の爆弾を見た子供とか、(説明のない状態で)ちゃんとしたメッセージが伝わるかなぁ。

アメリカ同時多発テロ、9.11のとき、アメリカのメディアはテロリストたちの攻撃を「カミカゼ・アタック」と称しました。
自爆テロに「カミカゼ」が使われることが快くはありませんでした。
その一方で、『永遠の0』を読むまでの僕は、特攻と自爆テロの区別が曖昧でした。
自らの命を犠牲にする「人間爆弾」行為は同じではないかと。
いまでも、理路整然と区別できているわけではありませんが、心情的には自爆テロとははっきり別物だと思っています。
大きな違いは、神風特攻隊が攻撃したのは軍事施設だということ。
民間人を巻き沿いにする自爆テロとは大きく異なります。
映画「インディペンデンス・デイ」のエンディングで、巨大UFOの弱点に体当たりするシーン。
あれもアメリカ人にはカミカゼ・アタックなのでしょうか。
聞いてみたいです。

少々、熱くなってしまいました、すみません。

さて、話を変えます、市之川鉱山について、です。

『続日本紀』の文武天皇2年(698)に「乙亥。伊予国献白錫。」とあります。
“白目”は、市之川産出の輝安鉱だと考えられています。
もし、これが真実だとすると、市之川鉱山はものすごく歴史が深いことになります。
年代が明確なものは、『市之川鉱山沿革誌』の延宝7年(1679)に曽我部親信が有望な鉱脈を発見した記録です。

延宝七年九月五日。
保野山ヨリ市之川山二通ズル道路破壊セシニ付山民二命ジテ修繕セシム。
親信山民ト共二保野山字仏ケ峠二於テ午餐ブ喫シ休息ス、然ルニ足下ノ岩石ト岩石ノ間二鎗ノ穂ノ如手形ヲナセル石(石英ナラン)アリ。
直チニ山民二命ジテ掘出サシメシニ其下ヨリ燦然タル。
塊ノ金ヲ掘出ス。
名ヅケテ白目ト云フ。

曽我部親信は、千荷坑・処後坑・大鋪坑・本番坑などを次々と開発し、一時的には成功しました。
けれど、鉱山技術に関しては素人だったため、共同経営者を迎えて鉱山開発を続けましたが、廃業。
その後も、曽我部家は経営パートナーを変えながら関わり続けました。
休・廃業を繰り返した結果、天保12年(1841)、鉱山は小松藩藩営のものとなりました。
明治になって経営者は県に変わった後、再び、曽我部家へと戻ってきました。
明治9年(1876)に開催のパリ万国博覧会に、市之川鉱山の輝安鉱が出品されました。
大いに注目され、鉱石の価格も上向きに転じました。
輝安鉱に含まれるアンチモンは弾丸の製造に必要な物質でした。
日清戦争時に最盛期を迎え、日露戦争でもとても景気がよかったそうです。
戦後は鉱石価格の下落により、休業。
次に事業が再開されたのは、大正3年(1914)、やはりというか、第1次世界大戦の勃発によるものでした。
戦争終結で、また休業。
第2次世界大戦中は、商工省からの増産命令と費用援助を受けて事業拡張、3交代・24時間体制で掘り続けました。
けれど、成果の上がらぬまま、敗戦を迎えました。
そして昭和33年(1958)、休業、いまに至っています。

市之川鉱山の輝安鉱は、子供の頃、堀之内にあった県立博物館で見たことがあります。
岩から飛び出した短剣のような鋭さを持つ、渋い銀色の巨大な結晶で、圧倒的な存在感でした。
市之川ってところの穴の中には、あんな美しい鉱石がにょきにょき生えてるのか!?と、想像力をたくましくしてくれました。
いまだって、僕は採りに行きたくてしょうがありません。
それくらい、魅力的な標本でした。
海外の主要な大学、研究所等で、市之川産の輝安鉱を収蔵しない施設はほとんどない、なんて話もあるようです。
標本になるような結晶のことを「マテ」と、当時の坑夫たちは呼んでいました。
発破でも掘り進められるのは1日に2mほどだそうで、いい鉱脈に当たるかどうかは運次第。
そうやって採掘していると、時々、結晶がある空洞(晶洞。坑夫たちの呼び名は「ガマ」)が現れることがあるそうです。
うう! 出会ってみたいぞ!
そんな輝安鉱の結晶は、市之川鉱山跡の資料館や、新居浜市大生院に移転した県の総合科学博物館でも見られます。
西条市の市立西条郷土博物館には、長さ45.5cm、重さ13.1kgのデカ物が展示してあります。


県立博物館所蔵の市之川鉱山産の輝安鉱。

千荷口のほかに近隣には坑口がたくさんあったようです。

鉱山周辺の地図

近くにはズリと呼ばれる採鉱時の不要な岩石が捨てられているところがあるそう。
水晶とか見つかることもあるみたいですよ。
お出かけの際は、マムシ注意で。

鉱山の最盛期には、周辺には100戸を越える民家が建ち並び、小学校には160人を越える児童が通っていたそうです。
公民館とこの白目山神社でも、屋台が並んだり、遠方からわざわざ歩いてくる人がいたほど、盛大なお祭りが催されたり。
別子銅山もそうだけど、閉山後のお山は当時の賑わいを想像するのも難しいほどに一気に寂れてしまうものですね。
まぁ、それがゴールドラッシュってものですけど。

と云うわけで、市之川鉱山跡も見られたので、引き返し、八堂山へ向かいました。
あ、帰りもダンプカーとすれ違いました。
路肩に寄りかかるみたいにして避けたんですが、結構、ドキドキものでした。
クルマだったら、避けるの大変。
工事って休日はやらないもんだから、鉱山跡を見学に行くなら、日曜日とかがいいかもね。
資料館も日曜ならやってるし。
僕もまた資料館が開いてるときに行かなきゃ。

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